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光明皇后―仏教文化を開花させ 現代日本の礎を築いた

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皇族以外からの初の皇后の誕生

聖武(しょうむ)天皇の妃(きさき)である光明(こうみょう)皇后は、皇族以外からの初めての皇后であり、その信仰心で、聖武天皇とともに日本に仏教文化を花開かせました。
 光明皇后(当時は安宿媛あすかべひめ)は701年に貴族・藤原不比等(ふじわらふひと)との娘として生まれます。父・不比等は宮廷で右大臣という位に就き、都一番の権力者でもありました。安宿媛は祖父・中臣鎌足(なかとみのかまたり)を尊敬し、藤原一族であることを誇りに成長していきました。
 716年に16歳で首(おびと)皇太子(のちの聖武天皇)の妃となり、2年後には安倍内親王(あべのないしんのう)を出産。724年には首皇太子が即位して聖武天皇となり、藤原家の人材を多く取り入れた新しい政治を始めます。
 国民のことを第一に考えて政務を続ける聖武天皇を安宿媛は陰日なたとなく支え、やがて待望の男児、基皇子(もといのみこ)を出産。世継ぎの誕生に宮中は沸(わ)き立ち、生後すぐに皇太子の位を授けますが、基皇子は1歳になる前に夭折してしまいます。
 安宿媛が悲しみにくれる暇もなく、宮中では権力争いや政権争いが渦巻き、長屋王(ながやのおおきみ)の変が勃発するなど混乱を極めます。そのような中で聖武天皇は、それまで皇族の女性だけが即位していた「皇后」に安宿媛を任命。民間初の皇后が誕生しました。

 

積極的な慈善活動

 光明皇后は即位と同時に皇后宮職(こうごうぐうしき)を設置し、執政や社会事業を行う拠点としました。そして貧窮者や孤児などを救済する「悲田院(ひでんいん)」、病人のための医療施設「施薬院(せやくいん)」をつくり、自ら献身的に慈善活動を行います。これらの組織は国からの制約を受けないようあえて宮外に、光明皇后の私財を投じてつくられたといわれています。
 皇后宮職はのちに紫微中台(しびちゅうだい)と改称。長官に光明皇后の甥である藤原仲麻呂(なかまろ)が任命され、数多くの施策が行われました。

 

日本の仏教文化は最盛期を迎える

 皇后は世継ぎを生み、天皇家の血筋を伝えることこそが仕事といわれていた時代に、光明皇后は血をつなぐことに加えて、日本全体の発展と、国民がよりよい生活を送ることを常に考え、行動に移していました。
 そのひとつに仏教流布があります。信仰篤い仏教徒だった光明皇后は、鎮護国家をめざす聖武天皇に、全国に国分寺や国分尼寺を建立するよう進言。さらに民衆から圧倒的な支持を受けていた行基に大僧正の位を授け、東大寺の大仏建立の事実上の責任者として招聘します。
 阿修羅像や四天王像などの仏像や、新薬師寺、法華寺といった寺々も建てられ、聖武天皇と光明皇后により、日本における仏教文化は最盛期を迎えました。

 

“日本の母”と呼ぶにふさわしい功績を残す

 また、光明皇后は法華寺の十一面観音像のモデルでもあります。当時のインドの王が日本に仏師を派遣し、光明皇后をモデルに仏像を3体彫らせたと伝えられており、うち1体はインドに渡り、1体はいまも法華寺の本堂の厨子(ずし)内に安置されています。美しい曲線美と女性らしさが評される十一面観音像ですが、モデルである光明皇后は美しさのなかに真なる強さを秘めた女性であったといえます。
 光明皇后は、「国民のためには政治の安定が不可欠である」と考えていました。そして、「天皇家を支える補佐役として、藤原家が最適」という思いから、聖武天皇の他の妃との間に生まれた男児ではなく、自分の娘である安倍内親王を皇太子に即位させます。それは決して権力欲などではなく、「政治を安定させ、日本の繁栄が数百年続くように」と願ってのことでした。

 実際に、光明皇后以降は藤原家の女性が皇后となる時代が続き、それが400年に渡る平安時代の礎となりました。平安時代は文化面でも繁栄を極め、いま「日本文化」と呼ばれるものの多くが創られた時代でもあります。
 国民を思い、仏教を篤く信仰していた光明皇后の数々の功績は、まさに“日本の母”と呼ぶにふさわしいといえるでしょう。

 
(2012年5月号「時代を創った女性たち」)

鈴木真実哉 

ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ経営成功学部ディーン

1954年埼玉県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。同大学大学院経済学研究科修士課程と博士課程で応用経済学を専攻。玉川大学、法政大学講師、上武大学助教授、聖学院大学教授等を経て、2015年4月よりハッピー・サイエンス・ユニバーシティ 経営成功学部 ディーン。同学部プロフェッサー。著書に『理工系学生のための経済学入門』(文眞堂)他がある。

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