近代女子教育アイキャッチ

日本の近代女子教育の曙「吉田松陰」

明治維新前後に始まった、日本の近代女子教育。
現在まで続く女性の地位向上の流れをつくった女子教育の夜明けに重要な役割を果たした、吉田松陰と昭憲皇太后の功績をご紹介します。

幕末の激動期に未来を見据え、女子教育の大切さを説いた理想の教育者

吉田松陰(よしだしょういん)
〔1830(文政13)~1859(安政6)〕

吉田松陰

末、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら、明治維新の立役者である維新の志士を教え育てた吉田松陰。
松下村塾で教鞭を揮った2年間に92人の塾生を指導し、幕末から明治へと時代を転換する原動力となった。松陰は29年の生涯で兵学や思想、教育などの数多くの著書を残し、「理想の教育者」として今も教育者たちの目標とされている。
戸時代は藩校などの教育機関に女性の姿はなく、「女に高等教育は不要」とされていた。そんな時代に、松陰は女子教育の重要性を訴え、大きな理想を抱いていた。
松陰が女子教育を重要と説いたのは、「歴史に名を残すような人材は女性によって生まれる」と信じていたためといわれている。「教育はまず家庭にあり、家庭教育は母性にある。女性の家庭における役割は非常に大きい」と、社会的にもその地位をもっと高めなければならないと考えていたのだ。
妻という立場についても、「夫が憂いなく外で働くには、内を守る妻の協力が必要である」とし、「女性にも妻や母として責任を持ってほしい。そのためには教育が必要だ」という、当時としては非常に画期的な思想を持っていた。
らに松陰は講義のなかで、女学校の建設論を提唱している。その構想は、 
●教師は40~50歳以上の武士の未亡人で、貞節、学問に通じ、家事にもすぐれるもの5、6名を校内に寄宿させる。
●生徒は武士の子女8~10歳以上に手習いや学問、婦人の道などを練習させる。希望すれば生徒の寄宿も許し、厳正に教育すること。
といったもので、日本に女学校ができる数十年前から女子教育の場について具体的に構想を練っていたことが窺える。
陰の女子教育の原点は、実母・瀧子にあるといわれている。瀧子は農作業で貧しい家計を支えながら7人の子どもを産み育て、姑や親戚を介護していた。忙しい日々だったが、子どもたちが家事を手伝おうとすると、学問もきちんとするよう指導したという。 当時の女性には珍しい、勉強の大切さを知る瀧子の姿は、松陰に大きな影響を与えた。
瀧子は松陰が松下村塾で妹たちや兄嫁に講義をしていた「女誡」や「女訓」を共に学ぶのを楽しみにしていたという。また、その講義には近所の女性も数名参加していた。
ぶ志のある者には身分や性別を越えて指導を続けた吉田松陰。提唱した女子教育論は明治以降の女性教育にも近く、その先見性は、新しい日本を拓くことに燃えた志士たちのなかでも卓越していた。
松陰は兄・梅太郎と仲がよく、旅先からいつも手紙を書いていた。兄(後名・杉民治)は松陰の死後に松下村塾を再興。明治時代には私立女学校の校長となるなど、兄弟ともに女子教育に力を注いだ。

参考文献:『エピソードでつづる吉田松陰』(海原徹、海原幸子 著/ミネルヴァ書房)『吉田松陰』(川口雅昭 著/致知出版社)『吉田松陰をめぐる女性たち』(木俣秋水 著/大和書房)『松陰の教え』(ハイブロー武蔵 著/総合法令出版)『松下村塾の指導者 吉田松陰』(福川祐司 著/講談社)ほか
cover_201111
続きは本誌へ