感謝の心の育み方 -後編-(2016年7月号)

2009年12月12日(土)津山支部精舎(岡山県津山市)にて説かれた説法「感謝の心」より抜粋にて紹介(全2回)

 

〝縁の下の力持ち〟として面倒を見てくれた父親

前回は、親に対する感謝の心が薄れている理由や、心の記憶に残る母親の仕事について述べました。
ただ、私が覚えているのは、母のことだけではありません。やはり、父が細やかな愛情をかけてくれたことも記憶に残っています。「よくここまでやってくれた」と思うことが数多くあるのです。
今の私は、当時たくましく見えていた父の年齢を越えています。
しかし、自分を振り返って、父と同じように子供に接することができたかと考えると、やはりできていません。
私はすでに〝都会人〟で、社会的には親よりも偉くなっているのかもしれませんが、子供の立場から今の自分を見ると、アバウトに面倒を見ている程度です。けっこう大きなところは見ているのですが、細かいところは手を下さずにやっているので、父のようにはできていません。〝何もしない父親〟で、まことに申し訳ないと思っています。
例えば、携帯電話にしても、持ってはいるのですが、いつも充電器に〝刺さっている〟だけです。携帯電話を携帯していないので、私に電話をかけることはできませんし、こちらからかけることもありません。携帯電話は、いまだに年に一回か二回、恐る恐る使うかどうかです。
万が一、迷子になった場合に備えて持っていることがありますが、秘書からは「この直通ボタンを押せば、秘書の誰かにつながります。迷子になったらここを押してください」と言われているぐらいです。そういうとき以外は携帯電話を使わないので、〝文明〟から取り残されてはいます。
もし、電話が直通になったら、全国から連絡がきて大変ですから、やはり携帯電話を持つわけにはいきません。あえて、文明から取り残されているのです。
ですから、おそらく父親としても、さぞ手を抜いた父親であろうと思います。私の父は、もっともっとマメでした。細かく、いろいろと子供の世話をしていたのです。
また、当時、両親が、「縁の下の力持ち」になろうとしていたことも、ひしひしと感じていました。それは、私の物心がついた後のことです。両親が、「息子は、勉強の道で生きていったほうがいい」と判断して以降、私の代わりに雑用をする側に回ってくれたことを明らかに感じました。
「自分たちはもう出世しないと分かっているが、子供のほうはまだ分からない」「あまり、つまらないことや、くだらないことに手を出すな」といって、雑用を引き受けてくれたことを覚えています。
例えば、父が、鉛筆をナイフで削ってくれていた姿を、ふと思い出すのです。 昔は、電動の高速鉛筆削り器もなかったので、そんなことまでしてくれていたのです。私が鉛筆を削ると、芯がえぐれて飛んでしまって駄目なのですが、父は、鉛筆を削るのがわりと上手でした。
もちろん、子供は、親が高邁な思想を教えてくれたときも感謝するかもしれませんが、こういう、ごくささやかなことに対して、「親への感謝の気持ち」を感じるものなのです。

 

町内放送で捜索願いをかけられた子供時代

私が小学六年生のときの話だったと思いますが、夜の八時になっても自宅に帰らなかった日がありました。
当時、私が夜六時までに自宅に帰っていないということはありえなかったので、人さらいにあったか、事故で亡くなったに違いないということになったそうです。
実は、私は友人の家に寄ったところ、珍しく紅茶が出されたので、それを飲んで話をしていたのです。「これが外国産のリプトンの紅茶ですか」「リプトンの紅茶は、ずいぶん赤い色が出るのですね」「角砂糖を入れるのですか。すごいですね」などと言っていました。
当時は、本物のコーヒーではなく、大豆でつくった〝コーヒー〟が出回っていたような時代だったので、リプトンの紅茶が珍しかったのです。
また、そのころは、電話も、今のような感じで使うことができませんでした。友人の家に呼ばれて、ふっと立ち寄ったときに、わざわざ自宅に連絡するようなことはめったになかったのです。
そんなことがあって、夜八時ぐらいまで友人宅にいたところ、〝町内放送〟をかけられてしまいました。町内の有線電話で、「ご存じの方はご連絡ください」という内容を放送され、全町内で、私がいなくなったことが、〝有名〟になってしまったのです。
翌日、学校で、「お前、何をしていたんだ」と皆に言われて、ものすごく恥ずかしかったことを覚えています。
私の子供たちも、夜に活動している場合が多く、なかなか家に帰ってこないこともあります。東京は電車の本数が多いので、娘は、夜の十一時ごろまで幸福の科学の学生部活動をしてから帰ってきていました。とくに危険もなく、駅から歩いて帰れるらしいのです。
もし、田舎で、夜の十一時になっても家に帰ってこなかったら、ほとんど人さらいにあっているとしか思えません。
私の場合は、夜の八時の段階で、町中に、「誰か発見した人は、至急、連絡をください」と〝指名手配〟をかけられたわけです。しかも、その連絡先は、自宅ではなく町役場、あるいは警察署だったと思います。
やはり、親は心配だったのでしょう。そういう、ふとしたエピソードをときどき思い出すのですが、ずいぶん気にかけてくれていたのだろうと思います。
また、高校入学のときも、書類か何か、学校に持っていかなければいけないものを家に忘れてしまったことがあります。母が後から学校に持ってきてくれましたが、私は、そのときプリッと怒って口もきかなかったことを覚えています。
恥ずかしいことですが、だいたいその年頃になると、もう親と口をきかなくなります。人前で親と話すことや、「こういう人が親なのだ」と他人に思われるのが恥ずかしいという気持ちになってくるのです。
かつて自分もそうだったことを思うと、子供たちにも寛容でなければならないとは思っています。

 

少し過干渉気味になっている都市部の母親たち

このように、親は、子供のことをずいぶん心配しているものです。
子供の頃は、「親は、自分のことを全て知っているものだ」と思っていましたが、実際は、子供がどんなふうに学校で過ごしているかなど、分からなかっただろうと思います。
なぜなら子供は、親に「今日は学校でこんなことをした」という報告をしないからです。……

 

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大川隆法 Ryuho Okawa

幸福の科学グループ創始者兼総裁

1956(昭和31)年7月7日、徳島県に生まれる。東京大学法学部卒業後、大手総合商社に入社し、ニューヨーク本社に勤務するかたわら、ニューヨーク市立大学大学院で国際金融論を学ぶ。81年、大悟し、人類救済の大いなる使命を持つ「エル・カンターレ」であることを自覚する。86年、「幸福の科学」を設立。2016年には立宗30周年を迎え、信者は世界100カ国以上に広がっており、全国・全世界に精舎・支部精舎等を700カ所以上、布教所を約1万カ所展開している。説法回数は2,500回を超え(うち英語説法100回以上)、また著作は28言語以上に翻訳され、発刊点数は全世界で2,200書を超える。『太陽の法』(幸福の科学出版刊)をはじめとする著作の多くはベストセラー、ミリオンセラーとなっている。また、映画「君のまなざし」(2017年初夏公開)など、11作の劇場用映画を製作総指揮している。ハッピー・サイエンス・ユニバーシティと学校法人 幸福の科学学園(中学校・高等学校)の創立者、幸福実現党創立者兼総裁、HS政経塾創立者兼名誉塾長、幸福の科学出版(株)創立者、ニュースター・プロダクション(株)の会長でもある。

『素顔の大川隆法』特設サイト

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