あの世での再会を楽しみにしているね

不慮の事故によって、ダウン症の息子・光輔くんを9歳で亡くした谷口さん。
早逝した光輔くんが遺してくれたものとは―。

この子をどうやって育てたらええんやろう

「検査の結果、息子さんはダウン症であることが分かりました」

第3子となる光輔を出産して1週間後、医師からそう告げられました。出産直後に初めて顔を見たとき、一瞬だけダウン症の特徴があるように見えて、もしかしてと思っていたので、医師の言葉は静かに受け止めることができました。気持ちは落ち着いていましたが、心に浮かんでくるのは、この先の不安でした。

(この子をどうやって育てたらええんやろう? 大人になって私がいなくなったら?光輔より一日でもいいから長生きせな……)

幸福の科学の信仰を持っていた私たち夫婦は、退院後、光輔を連れて琵琶湖正心館を参拝しました。礼拝堂のエル・カンターレ像(*1)の前で手を合わせていると、心の中に「がんばらなくてもいいよ」と聞こえてきたような気がしました。そのときふと光輔を見ると、天使のような満面の笑みを浮かべていたのを今も覚えています。
小学校入学を目前に控えたころ、私は「普通の学校に行ったらいじめられるかもしれないから、特別支援学校に行かせよう」と考えていました。しかし地元の公立小学校の校長先生が、「光輔くんも同じ地域でみんなと一緒に大きくなってほしい」と言ってくださいました。担任の先生もとても理解のある方で、クラスのみんなも温かく迎え入れてくれたのです。

「こうちゃん、なんて言ってるか分かれへん」
気持ちをうまく言葉にできない光輔に対して戸惑う子もいましたが、クラスの子供たちは、積極的に光輔と関わってくれました。ある日、いつものように学校に迎えに行くと、先生から教室に呼ばれました。

「こうちゃん、がんばれ!」
見ると、光輔がクラスのみんなに囲まれて、大嫌いな牛乳を飲んでいるではありませんか。周りの声援に応えるように、時間をかけて飲み干し、得意気な表情。
「こうちゃんが飲めたー!」と、みんなが喜んでくれています。そんな温かい先生と友達に囲まれて、光輔は本当に幸せ者だと感じました。

*1 幸福の科学の信仰対象である、地球神エル・カンターレの姿を表した像のこと。

一瞬、目を離した隙に……

2013年4月9日。4年生になり、始業式を終えた光輔と私は、近所に新しくできたショッピングモールに出かけました。そこで一瞬目を離した隙に、光輔がいなくなってしまったのです。
 「光輔ー! 光輔ー!」
必死に探しましたが、館内はとても広く、なかなか見つかりません。屋上の駐車場まで探しても見つからず、困り果てていたとき、エスカレーターの前に人だかりが見えました。
「何かあったんですか?」
「男の子がエスカレーターの上から落ちたんです。今、救急車で運ばれていきました」
(まさか……!)
着ていた服の特徴を確認すると、すぐにそれが光輔だと分かりました。ひどく動揺してしまい、その後どうやって病院に行ったのか覚えていません。病院に着いたときには、光輔は頭に包帯を巻かれ、顔は倍ほどに腫れ上がっていました。頭から落ちたせいで前頭葉が陥没してしまっているということでした。
実は、光輔が突然いなくなるのは、これが初めてではありませんでした。以前には、家からいなくなったと思ったら、近所のレンタルビデオ屋さんにいたこともあります。
事故の前日にも、自分で家のドアを開けて出て行ってしまい、探し回った末に家から数キロ離れた場所で見つけたのです。
「もう知らん! どこの家の子になってもええ! もう帰ってこなくてええわ!」
そう怒鳴ってしまったことを思い出し、私は自分を責めました。あんなこと言ったから、本当にいなくなってしまったんやろか……。泣き続ける私を、家族は「そんなことない。誰が一緒にいてもありえたことや」と励ましてくれました。

光輔の人生は高貴だった

光輔がICU(*2)に入っている間、家族で交代で病院に行き、様子を見守りました。事故の2日後には小学校の校長先生と担任の先生がお見舞いに来てくださり、クラスのみんなからの励ましのメッセージが吹き込まれたカセット、千羽鶴もいただきました。
事故から2週間ほど経った日曜日。主人が「今日は琵琶湖正心館へ行こう」と提案してくれて、一向に意識の戻らない光輔の回復を祈ろうと、家族で向かいました。1時間半ほどで着き、庭を見ると、見たこともないような大きな虹の架け橋がかかっていたのです。

(ああ、もしかしたら光輔の命がつながったのかもしれない)

そんな期待を胸に、病院へ戻りました。「お母さん、光輔くんの体を拭いてもらってもいいですか?」
翌日、看護師にそう言われ、「やっと私が体に触れられるまでに回復したんか」とうれしくなりました。しかし、意識は戻ることなく、あの予感も当たりませんでした。事故から19日ほど経った4月27日、光輔は、家族や親しい人たちに見守られながら、眠るように息を引き取ったのです。
「光輔!!」
両親や親戚も駆けつけ、幼馴染の叔母さんが「思いきり泣き!」と抱いてくださり、私は病院中に響くような大声で泣きました。
葬式には、1000人以上の人が足を運んでくれました。会場は地元から少し離れたところにあったのに、多くの方が光輔に会いに来てくださったことに、驚きとともにただただ感謝でいっぱいでした。葬儀は幸福の科学式で行ったのですが、後で導師に聞いたところ、最後に『正心法語』を唱えて法鈴を鳴らしたとき、光輔が天使に導かれるように、スーッと上へ上がっていくように感じたそうです。

(高貴な人生やったな……)

最後に私の心に浮かんだのは、この言葉でした。障害を持って生まれ、ゆっくりだけれど一つひとつ身の回りのことができるようになっていった光輔。明るく天真爛漫で、みんなから愛された光輔の人生に、何とも言えない高貴さを感じていたのです。

*2 集中治療室。

天使になってがんばっているはず

慌ただしく過ぎていった葬式の後、私は抜け殻のような日々を過ごしました。幸福の科学の教えを学び、「死後の世界はある」「天国で再会できる」と分かっていましたが、どこに行くにも、いつも一緒だった光輔の温もりをもう感じることができない―。そう思うと、深い悲しみと喪失感が襲ってくるのです。
そんなときにはよく、御本尊の前で『正心法語』を読誦しました。経文を読んでいくと、肉体がなくなっても魂は不滅であると思い出すことができ、光輔の存在を感じて心が楽になりました。毎週、ラジオ番組「天使のモーニングコール」で聞いていた大川隆法総裁の法話も、私の心を支えてくれました。
「天使たちは、日夜、活動しています。数多くの人々を助けようとしています」
数カ月ほど経ったころにこの一節を聞いたとき、「ああ、光輔も天使になって、あの世でがんばっているはずや」と感じたのです。それならいつまでも悲しんでいてはいけない。私は少しずつ、周りの人に笑顔で接することを意識するようになっていきました。
当時大学生だった長男の光太朗と、大学受験を控えた長女のひかりも、光輔が亡くなって思うところがあったようです。大学をサボりがちだった息子は東日本大震災の被害が残る地域に行ってボランティアを始め、勉強もするようになりました。娘は先生方のサポートもあって志望していた大学に合格。
今は言語によるコミュニケーションができない人をサポートする言語聴覚士になるための勉強を続けています。

光輔が教えてくれたこと

光輔との日々を思い返すとき、私はたくさんのことを学ばせてもらったと感じます。もし、光輔がダウン症でなければ、私は少しでもいい学校に入れようとエリート教育をして、受験競争に専念していたと思います。ダウン症は他の先天性の病気を併発することも多いので、さまざまな検査に連れて行ったり、障害を持ったほかの子供たちを見たりしているうち、「生きていてくれれば、それでいい」と感じるようになりました。
 そんなところから始まった子育てですが、成長とともにできることが増え、「ひらがなが書けたらいいな」「数字が書けたらいいな」という小さな目標を、光輔とともに一つひとつ乗り越えていきました。その中で、「当たり前にできること」が当たり前ではないこと、周りと比べる必要はないこと、そして、完璧を求めず、大らかな心で成長を待つことの大切さを学んだのです。同時に、家族や友人、周りの人たちからたくさんの「優しさ」をいただいていたこと、神様が私たちを見守り、生かし、愛してくださっていることに気付きました。今でも感謝の思いでいっぱいです。光輔を育てる中で、たくさんの困難はありましたが、それによって得たものは数え切れません。

「つらいときには、光輔を思い出してほしい」

昨年、光輔の元同級生だという女の子から、手紙をもらいました。
「苦しいとき、こうちゃんのことを思い出すことがあります。今年、受験があるのでがんばります」
光輔が亡くなったとき、学校の先生に、「人生の中でつらいことがあったときには、光輔という子がいたことを思い出してほしい」と子供たちに伝えてもらうようにお願いしていたので、こんなふうに思ってくれていた子がいたことが、とてもうれしかったです。
障害者と接した子は、優しい気持ちをずっと忘れないんですよね。
たくさんのことを教えてくれた光輔に負けないよう、私も自分の人生を全うできるようにがんばりたいと思います。光輔、いつかあの世で再会できる日を楽しみにしているね。

(「Are You Happy?」2019年8月号)

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