信仰に生涯を捧げる決意

幸福の科学学園で宗教教育を担当する竜の口法子さん。生徒や卒業生たちと真摯(しんし)に向き合い、ときには悩みに答え、叱咤(しった)激励し、一緒に涙する“学園の母”として生徒たちや保護者から親しまれている。その素顔と、教育にかける情熱の原点に迫る。(「Are You Happy?」2017年9月号掲載)

「今日は今まで言ってなかったこと、全部話しちゃいますね(笑)」。本誌連載でもおなじみの笑顔で開口一番、こう話した竜の口法子。もがき苦しんだ高校時代の挫折経験、幸福の科学の教えを信じる友人を心ない言葉で傷つけてしまった大学時代、そして出家者としての力不足に悩んだ日々――今は幸福の科学学園で生徒たちと接する喜びに満たされている竜の口が、その半生を赤裸々に語った。

「なぜ私は生きているの?」

竜の口法子は1969年、会社員の父と美容院を経営する母のもと、静岡県静岡市に生まれた。小さいころから元気で丈夫な子供だったという。

「泣き虫でしたが(笑)、熱を出したり風邪をひいたりすることはほとんどありませんでした。足が速かったので、小学校の運動会では毎年、選抜リレーのメンバーに選ばれていたんです。子供のころは運動会で目立つとヒーローになりますし、“ムードメーカー”でもあったので、みんなが推薦してくれて、学級委員長も毎年やっていました」

小学校は6年間、無遅刻無欠席無早退。中学3年生まで毎年、学級委員長を務めた。中学校では陸上部に所属し、ハードルの選手として活躍。成績も優秀で、将来の夢はアナウンサーか通訳、学校の先生だった。希望に満ち溢(あふ)れたまま陸上部が強い高校に進学したが、そこから暗黒時代が始まった。

「入学したぐらいから、自分の存在価値がわからなくなって。『生きていて意味があるんだろうか』などと考え出すと止まらなくなり、クラスでも孤立するようになってしまったんです。陸上部も続けていましたが、腰を痛めて走れない日々にさらに劣等感が強くなりました。授業中に突然涙が出てきて、友達や先生に『なんで泣いてるの?』と聞かれても答えられないんです。食事もできず、体重はどんどん減り、家ではずっと部屋に閉じこもっていました」

「私は誰からも必要とされていないんじゃないか」――考えれば考えるほど、ブラックホールに堕ちていくような感覚だったという。学校で、何人もの先生に生きる意味や勉強の意味を問うたが、納得のいく答えはもらえなかった。

「勉強だけは、『やらないと生きている意味がないのかな』と思って頑張りました。おかげで総代で卒業できましたが……。通学路に全長500メートルほどの橋があり、強風の日は自転車をこぐのもやっとなのですが、体重が減っていたので、雨の日に車の風圧に煽(あお)られ水たまりに倒れたこともあります。びしょ濡れになりながら、『私なんか、本当に生きている価値がない』と泣きました。思い出すと、あのころも両親や友達、先生など多くの方から愛されていたんです。でも当時はそれに気づく余裕もありませんでした」

刹那(せつな)的な生き方から幸福の科学の熱烈信者へ

高校を卒業した竜の口は、大学進学のために上京。寮生活が始まった。

「もう暗い日々を送りたくなかったので、大学では、自分が生まれた意味などの“自己の探求”はやめようと決めました。心にフタをして、目の前の楽しいことに集中する“嘘っぽい光明(こうみょう)思想”で、刹那(せつな)的に生きていたんです」

アルバイトも始め、当時流行(はや)っていた六本木のディスコに足を運ぶなど遊びに夢中になった。そんななか、友達が幸福の科学の信者となり、竜の口に「本を読んでみない?」と勧めてきた。

「おっとりしたやさしい子だったので、心配して『宗教なんて、騙されてるんじゃないの』などと言ってしまったんです。でも彼女は怒らず、教えを話したり、月刊誌や大川隆法総裁の書籍を渡したりし続けてくれました」

しかし、時折訪問してくる新興宗教の勧誘に疑問を持っていた竜の口はある日、こう言ってしまう。

「『人のため』『誰かのため』とか言ってるけど、結局は自分のためにやってるんじゃないの? 偽善者だよ」

竜の口の拒絶とはうらはらに、共通の友人たちは次々と教えに感動し、信者になった。“外堀を埋められた”竜の口は、最初に渡されていた書籍を手に取る。その本のタイトルは『常勝思考』

「『人生に敗北などないのだ。』というキャッチコピーに惹かれました。逆境のときと順境(じゅんきょう)のときについての教えが印象に残り、心にフタをしていた高校時代を含めて、人生をきちんと振り返りながら将来について考えよう、と前向きになることができたんです」

そして、運命を変える一冊に出合う。

「次に、渡されていた『太陽の法』を読んでみたんです。そうしたら人生の疑問に対する答えがすべて書かれていて、『これでもう孤独にならなくていいんだ』と確信しました。嵐の中を漂う小船のように、周りに影響されながら右へ左へと漂っていた私の心に、しっかりとした錨(いかり)が降ろされたんです。あの温かい安心感は忘れられません」

一生涯を主に捧げよう

この教えをもっと学びたい。そう思った竜の口は友人に連れられ、幸福の科学の学生部の集いに参加した。

「たくさんの学生が集っていて、今は幸福実現党の党首である釈量子(しゃくりょうこ)さんにもこのときに出会いました(笑)。集いが始まる前に、皆で正心法語(しょうしんほうご)の経文(きょうもん)を読んだのですが、その姿がとても美しくて……。『こんなに純粋なものがあるだろうか』と衝撃を受けたことを憶えています。そして皆、世の中や日本をよくしようと真剣に話し合っていて、同世代なのに自分のことしか考えていない自分が恥ずかしくてたまらなくなって。『末席でもいいから入れてもらいたい。仲間になって一緒に活動したい』と強く思い、会員になりました」

入会者に授与される幸福の科学の根本経典(きょうてん)。

竜の口が20歳のころのことだった。

「思えば、私はずっと“人生の目的と使命”が知りたかったんです。幸福の科学の『誰もが使命を持って生まれてくる』という教えで、自分が何のために生きているのかがわかって、本当にうれしくて。これからは全力で活動に打ち込もうと決意しました」

90年代初頭の当時、幸福の科学でもノストラダムスによる人類滅亡の預言の現実化の可能性が伝えられていた。

「私たちの人生は30歳くらいで終わるかもしれないけれど、予言が現実になっても悔いが残らないよう、20代のうちにできる限り教えを広めよう。そうすれば悲惨な世紀末を食い止められる! これが、私たちの合言葉でした」

竜の口ら学生信者は、大学の休憩時間に辻説法(つじせっぽう)をしたり、家々を回ったりして懸命に教えを伝えた。ノストラダムス研究会を作り、女子大生グループ「ノストラダ娘(ムスメ)」としてキー局の番組に何度か出演したこともある。

「『ひとりでも多くの人に、1秒でも早く教えを伝えたい!』と思うあまり、若者でごった返す渋谷のファーストフード店で『皆さん! 今、仏陀(ぶっだ)が幸福の科学の大川隆法先生として再誕しています!』と叫んでしまったこともあります(笑)」

91年、大川総裁が母校・東京大学の五月祭(ごがつさい)で初の野外説法でもある講演「黎明(れいめい)の時代」を行った。

「とても暑い日でした。野外会場でしたから、バンドの音が鳴り響き、興味本位で『大川隆法ってどんな人だろう?』と集まった学生たちもいる中で、大川総裁は声を張り上げてお話をされた。当時は警備もいませんでしたから、危険を冒(おか)して後輩や私たち学生のために説法をしてくださった総裁の思いと期待を考えると、涙が溢れました」

竜の口は閉会の挨拶を担当。大川総裁が説法を終えたばかりの演台に立ったとき、大川総裁の不惜身命の思いが会場中に溢れているのがわかり、圧倒されたという。7月には、初の御生誕祭が東京ドームで開催。大川総裁が法話「信仰の勝利」を説いた。

「ステージの高い階段からゆっくりと降りられる姿を見たときに、『ずっとお会いしたかった主にようやく出会えた』という感覚があり、大川総裁が神であることを確信しました。法話中は、いくら拭(ぬぐ)っても涙が止まらなくて……。『主に一生涯ついていこう。生涯を救世(きゅうせい)運動に捧げよう!』と、その後の仏弟子(ぶつでし)人生で何度も訪れる“魂の喜び”を初めて体験した、“絶対幸福”の日でした」

使命を果たすために出家者として生ききる

活動に明け暮れた大学時代を送った竜の口は、卒業と同時に地元で塾講師として就職。2年が経ったころ、幸福の科学の職員として出家が許された。

「でも両親には反対されて。何より祖母が、そばにいてほしいと泣くんです。親戚や近所の人に、『家族を幸福にしてこそ“幸福の科学”でしょ。身近にいる大事な人を幸福にできないで、幸福の科学の仕事なんてできないよ』と言われ、『確かにその通りかもしれない』と思ってしまったんです」

大川総裁の書籍を読めば「出家しかない」と思い、祖母の涙を見ると「自分勝手なのか」と悩む日々が続く。揺れ動く竜の口に、地元の法友(ほうゆう)がこう言った。「もし家族に何かあったら、静岡にいる私があなたの家族の面倒を見る。だから出家するべきだよ」。

「思いを固めるために、改めて今までの人生を振り返ってみました。無償の愛を注いで育ててくれた両親や祖母、自分は高卒で就職して、私を大学に行かせてくれた兄。与えていただいた愛は、一生恩返ししても返しきれないくらい大きなものでした。家族のために私は何ができるかを思うと、出家者として幸福の科学の教えを広めることで、世界を幸福にすることしかないとわかったんです」

94年、竜の口は出家者となる。

「広報局に配属され、翌年の阪神・淡路大震災のときには現地に急行しました。一面のがれきの中、ご家族を亡くして泣き叫ぶ人や呆然と立ちすくむ人……。そんな悲惨な光景の中で、支部に寝泊まりしながら、地元の信者さんたちと『困っている人はいませんかー?』と叫びながら歩き、炊き出しや日用品の配布などを行いました。信者さんの中に、震災でご家族を亡くされた20代くらいの女性がいたんですが、ご自身もつらいだろうに“救う側”に立たれ、被災された方を一生懸命に慰(なぐ)さめ、支援していました。『信仰は、こんなにも人を強くするものなんだ』と感じた、忘れられない出来事です」

学園生たちは未来への希望

その後はヤング・ブッダ局(現 学生局、青年局)や活動推進局(現 エル・カンターレ信仰伝道局)、幸福実現党、幸福の科学出版など、異動は20回を超えた。何度も壁にぶつかり、出家者としての自信を失い、眠れぬ夜を過ごしたこともある。それでも91年の東京ドームでの「生涯を救世運動に捧げよう!」という決意のもと、困難に立ち向かい乗り越えてきた。現在は幸福の科学学園の宗教教育担当として、生徒たちと日々接している。

「もう、生徒たちに恋しちゃってます(笑)。学園ではいたずらをされたり、あいさつをしても機嫌が悪いときには無視されたりもしますが、そんな彼らもときどき、魂の輝きの片鱗を見せてくれるんです。真剣なまなざしや言葉、行動などでその輝きが見えるたびに、男の子にも女の子にも、胸がキュンとしちゃいます」

学園生たちを教育する立場だが、逆に教わることも多いという。

「本当に、真理に対してまっすぐなんです。大川総裁の講演会では、本会場でもモニター会場でも、真っ先に拍手をするのは学園生たちです。幸福の科学の仏法真理(ぶっぽうしんり)を隠したり、恥ずかしがったりする生徒はいません。彼らのように、私も真理に対して嘘のない生き方をしたいんです」

自身が学園生の年齢のころに悩み苦しんだからこそ、信仰のもと学べる生徒たちへの思いはひとしおだ。

「私も幸福の科学学園に通えていたらな、と思うんです。たとえ真理を知っていても、人間関係や恋、勉強などでさまざまに悩んだでしょう。それは学園生たちを見ていても感じます。でも学園では、同じ信仰を持つ法友や先生に相談したり、大川総裁の書籍を読んだり、礼拝室で心を落ち着けて考えたりできる。それはとても幸せなことです。だから来世(らいせ)は絶対に幸福の科学学園に入るって決めています。それも中学からね(笑)。未来への希望を背負った学園生たちの育成とともに、これからもさまざまな形でこの信仰を伝え、たくさんの仲間を増やし、世界を幸福で満たしていきます」

(「Are You Happy?」2017年9月号)

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