沖縄の本土復帰に尽力したT・Nさん、T・Hさんご夫婦に、当時のお話を伺いました。
祖国復帰は心からの願い
編集部(以下、―) 戦後、アメリカの施政権下に置かれた沖縄では、祖国・日本への復帰を求める声が高まりました。当時の状況について教えてください。
Nさん 私は石垣島で生まれ、当時は沖縄本島で仕事をしていました。アメリカが復興を支援してくれたことはありがたいことでしたが、幼いころから日の丸を掲揚し、「日本人である」という誇りを持っていたので、祖国・日本への復帰は心からの願いでした。1960年には、「沖縄県祖国復帰協議会」(以下、復帰協)が結成され、沖縄教職員会や労働組合、政党など諸団体が参画したこともあり、復帰運動が活性化していきました。当初は、日の丸掲揚が推進され、「基地容認」「安保容認」の考えで、早期復帰を目指していて、私も復帰運動に参加するようになったんです。
Hさん 私の父は現地招集兵で、沖縄戦で亡くなっているんです。私は高校卒業後、就職しようと上京したのですが、みんなレジャーに明け暮れて、国のことを考えるなんてバカらしいという風潮でした。お国のために戦い死んでいった父のことを思うと悔しくて。
少なくとも私は、「日本を守ろう」と戦われた英霊の方々の思いを受け止め、沖縄の祖国復帰を成し遂げようと決心したんです。それで再び沖縄に戻り、復帰運動に邁進するようになりました。
すり替わった復帰運動
― そうした運動の甲斐もあって、69年には佐藤・ニクソン会談で3年後の本土復帰が決まったのですね。
Nさん 当時はみんな喜んでいましたよ。ところが、そのころから本土の安保闘争で、安保破棄を実現できなかった革新勢力が沖縄に流れ込み、その影響で復帰協の運動は、急速に左傾化していきました。「核撤去」「米軍による基地の自由使用反対」「安保条約破棄」を訴え、「即時無条件全面返還」でなければ復帰は認めないと、これまでと正反対の主張をし始めたのです。
71年に日米で返還協定が調印されてからは、この協定の批准を国会が承認するのを阻止する運動が起こり始めました。日教組の影響を受けた教職員組合からは復帰そのものを反対する運動も起きて、沖縄中がそうしたムードになってしまったんです。
Hさん 自民党の議員の方からは、「国会でも社会党や共産党が復帰反対運動を盛んにしていて、協定批准の承認を求める国会が開けるかどうか危うい状態です」と知らされました。この国会を開くことができなければ、沖縄はいつ復帰できるか分からないとも言われましたね。戦争以外で領土返還が行われることは普通ありませんから。
Nさん そこで私たちは、沖縄の人たちが本来願っていた「早期復帰」の声を国会に届けるための運動を始めたんです。
本誌では、上記エピソードの続きと、下記の記事をお読みいただけます
▶ アジアの平和を守る地であることの誇りを。(幸福実現党沖縄県本部統括支部代表 金城タツロー)
▶ SPECIAL INTERVIEW 幸福実現党 党首 釈量子「幸福実現党は、地球を守る使命を持った政党です。」
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