辛亥(しんがい)革命などの偉業を成し遂げ、中国・台湾両国から「国父」と尊敬される稀有な存在、孫文(そんぶん)。その活動を支え続けた日本人がいることをご存じだろうか。「日活」創始者のひとりでもある実業家・梅屋庄吉の、激動の人生を追った。
平和で平等なアジアを
庄吉は1869年、長崎県に生まれる。生後すぐに貿易業と精米所を営む梅屋家の養子となり、舶来品や外国人に親しんで育った。近所に住む三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎にかわいがられていたという。
幼いころからわんぱくで、14歳で上海行きの船に忍び込み、初の海外渡航を果たす。上海で庄吉が見たものは、アヘン戦争で敗れた結果、欧米人に屈辱的に扱われる中国人の姿だった。庄吉は同じアジア人として怒りに震え、「平和で平等なアジアを実現する」と誓う。
最愛の妻・トクとの結婚
その後、長崎で米相場に手を出すも大損。逃げるように香港に渡り、写真館を開く。
そして27歳のときに一時帰国した日本で、両親の決めた結婚相手トクと結婚。困った人を放っておけず、捨て子がいれば連れて帰り、貧乏な人にはお金を渡してしまう庄吉を、トクは生涯に渡って支え続けた。
“盟友”孫文との出会い
明治28年、庄吉は香港で生涯にわたる“盟友”孫文と出会う。クリスチャンの孫文は“神の下の平等”という思想を持ち、300年以上中国を支配している満州族による清朝の腐敗こそが現在の中国の惨状の元凶であり、「革命を起こし、清朝を倒さねば中国は西洋列強に分割される」と考えていた。「アジアを護る」という思いが一致したふたりは熱く語り合う。そして庄吉は言った。
「君は兵を挙げたまえ。私は財を挙げて支援す」
革命支援と映画会社設立
その後、孫文は武装蜂起を企てるも失敗。日本に亡命し、犬養毅や宮崎滔天ら志士たちと親交を深めた。庄吉も香港で写真館を続けながら革命家を支援していたが、密告されシンガポールに脱出。そこで映画の上映を始めたところ大当たりし、36歳の帰国時には、現在の価値に換算すると14億円近くの財を成していた。
日本でも「Mパテー商会」という映画会社を設立し、音楽隊で街を練り歩く、絵はがきを配る、新聞に半額券付き広告を出すなどの画期的なPRで他社との差別化を計った。
さらに会場を輸入物の棕櫚の葉で飾り、誘導係は全員若く美しい女性を配備。スクリーンから近い席ほど料金を高くし、特別感や高級感を演出した。創意工夫が功を奏し、会社は順調に業績を伸ばす。
映画会社“日活”創設
やがて映画界はスクープ映像合戦に突入し、庄吉も日比谷公園での伊藤博文国葬のゲリラ撮影を敢行。前日のうちに公園内のレストランにカメラを隠し、翌日、参列者に紛れて撮影した。この映像はスクープとして大反響を呼ぶ。さらに大隈重信に依頼され、若手カメラマンを派遣して命懸けで撮影した南極探検隊の映像など、ヒット作を生み出した。
その後、庄吉は「映画界の発展のために」と、映画会社数社に合併を提案。取締役に庄吉を据えた「日本活動写真株式会社」、のちの「日活」が誕生する。1912年、明治天皇崩御による株価暴落の責任を取る形で取締役を辞任するが、日本最古の歴史を持つ映画会社「日活」創立という偉業を成し遂げた。
辛亥革命で中華民国樹立
1911年、孫文率いる革命軍はついに「辛亥革命」を起こす。庄吉は11億円以上を援助し、カメラマンを上海に派遣。歴史的瞬間を記録に残した。
翌年1月1日には、孫文を初代臨時大総統とする中華民国が南京で成立。孫文は清朝打倒の悲願を達成した。
しかしその後も内乱が続き、第二革命、第三革命が勃発。庄吉はお金や武器、航空学校設立資金まで、孫文ら革命軍に援助を続ける。映画事業も再開し、収益の多くを革命支援に充てた。さらに孫文が日本に亡命した際には自宅に匿い、精神的にも支え続けた。
志半ばでの孫文の死
1924年、分裂した中国で、統一をめざして活動を続けていた孫文は6年ぶりに来日。庄吉は病床にあり、再会はかなわなかったが、これが孫文最後の来日となってしまう。
翌年、孫文は志半ばにして肝臓がんで死去。悲しみにくれた庄吉は、孫文の偉大さを後世に伝えるためにと、残りの財産を投げうって孫文の銅像4体をつくり、中国に寄贈することを決意する。
孫文の像を寄贈し日中関係のために奔走
やがて1体目の銅像が完成し、上海に寄贈。除幕式で庄吉は「孫文の志のもと、三民主義的国家建設の実現を受け継いでほしい」などと訴えた。
しかし日中関係は悪化の一途を辿り、1931年には満州事変が勃発。庄吉は還暦を越えた体で日本中を奔走し、孫文や革命軍との人脈を説明。中国との交渉のパイプ役になると訴えたが、11月15日に千葉県三門駅のホームで倒れ、23日、65歳で息を引き取った。
一代で築いた富を“盟友”らの革命に費した梅屋庄吉。総額1兆円とも2兆円ともいわれる金額を惜しげもなく捧げたその姿は、信念に対して無私な姿勢の美しさを伝え続けている。
Episode1 “不死身の男”庄吉には「猫魂」が宿っていた!?
庄吉は5歳のときに店の裏の川で溺れ、意識不明となり死亡したとされた。しかし、いざ棺に釘でふたをしようとした瞬間、庄吉は息を吹き返す。「“猫魂”が入った」と町は大騒ぎになった。
さらに19歳のときには、船上でコレラを発症した中国人3人をアメリカ人船長が、生きたまま海に捨てるのを目撃。激怒した庄吉だが、その祟りかその後船で火災が発生し、船長と庄吉だけが奇跡の生還を遂げた。
「猫魂」が宿った男と思われていたが、孫文の支援という使命のために、天に護られていたのかもしれない。
Episode2 孫文がもっとも愛した女性との結婚を取り持った梅屋夫妻
孫文の三回の結婚のうち、一番幸せだったとされる三度目の結婚を取り持ったのが梅屋夫妻だ。第二革命に破れ、日本で亡命生活を送っていた孫文は、美しく聡明な秘書・宋慶齢(そうけいれい)に次第に惹かれていった。
しかし、慶齢は上海に戻ってしまう。庄吉の妻トクは落ち込む孫文から「彼女と結婚できるなら、明日死んでも悔いはない」と聞き、「私にまかせていただきます」と宣言。上海に使いをやり、孫文の思いを伝えた。同じ気持ちでいた慶齢は喜んだが、孫文が中国に妻子がいること(その後、慶齢との結婚前に同意のうえ離婚)や、27歳の年齢差もあって革命の同志らは大反対。そんな中で梅屋夫妻だけが心から祝福し、自宅を開放してふたりのために盛大な結婚式を催したという。
孫文(1866-1925)
中国の革命家・思想家。広東省の貧しい農家に生まれ、12歳でハワイに留学。民主主義などの西洋思想を学ぶ。香港の西医書院を卒業後、医師として活躍。清朝打倒を目指し、1911年の辛亥革命後、中華民国の初代臨時大総統となる。マルクス思想を批判し、三民主義を唱えて革命活動を続けた。
参考文献:『孫文のスピリチュアル・メッセージ』(大川隆法 著/幸福の科学出版) 『盟約ニテ成セル 梅屋庄吉と孫文』(読売新聞西部本社編/海鳥社) 『革命をプロデュースした日本人 評伝 梅屋庄吉』(小坂文乃 著/講談社) 『孫文の辛亥革命を助けた日本人』(保坂正康 著/ちくま文庫) 『孫文・梅屋庄吉と長崎 受け継がれる交流の架け橋』(長崎県・長崎市・長崎歴史文化博物館/長崎新聞社) 『小説 友情無限 孫文を支えた日本男児』(井沢元彦 著/角川書店)ほか