戦争中の苦しい時代を耐え抜き、現在は家族4世代で暮らしているWさん。
これまでの人生と幸せの秘訣を聞きました。
「もっと勉強したい」――15歳で選んだ看護婦の道
1929年、私は福岡県で男2人、女5人の7人きょうだいの下から2番目の子供として生まれました。そんな私にとっては、姉たちが親代わりでした。父は農家として働いていたものの、生活は決して裕福ではなく、姉たちは中等学校を卒業するとすぐに働きに出て、そのお金で私はランドセルなどを買ってもらったりした記憶があります。
姉たちと同様、私も中等学校を卒業後、女学院に進学することはかなわず、女学院より学費が安い大学病院付属の看護婦養成所に進むことにしました。養成所では、2年間看護について学ぶことができ、その後、義務として2年間、大学病院で働くことになっていました。「もっと勉強したい」という気持ちを捨てられなかった私は、15歳で看護婦になる道を選びました。
私が大学病院に入ったのは、戦時中の1944年。翌年には終戦を迎えて、日本は軍国主義から民主主義に急速に変わっていきましたが、当時はまだ専門も自分で選ぶことはできません。配属されたのは整形外科で、臨床の経験を積みたいと思っても、回される仕事は外来の受付や診察の補助ばかりでした。自分の思うようにはなかなかできなかった時代ですが、与えられた仕事に尽力しました。
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