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愛する台湾の治水事業に命を捧げた日本人技師 八田與一の生涯

台湾の南・台南市の嘉南平原に、湖と見間違うほどの巨大なダムがあります。烏山頭ダムは、日本の台湾統治時代に日本人技師の八田與一によって計画・設計・監督され、10年の歳月をもって完成しました。
 現在は「台湾の食料庫」と称される台南市ですが、日本統治以前は、雨季は大地が水に浸り、乾季には水不足に悩まされる、農業にはまったく不向きな土地でした。
 苦しむ台湾の人々を助けたいという思いでダム建設を企画し、東洋一のダムを作り上げた八田與一。その信念を貫いた生き方に迫ります。

 

不毛な大地に苦心する台湾の農民を助けるため
灌漑設備を造ろうと決意

八田與一は1886年、石川県川北郡花園村(現・金沢市)の豪農の家に、五男として生まれます。浄土真宗のさかんな地域で、八田家にはよく信者が集まっていました。そのような環境から、與一には神仏への信仰心が身近にあったようです。
1907年、日本最難関の東京帝国大学の工学部土木科に入学した興一は、大学卒業と同時に台湾に渡り、台湾総督府土木部に土木技師として勤務。台湾の南部に大規模水力発電所を造るための調査と、米増産のための灌漑施設計画の調査を依頼された與一は嘉南地方に向かいます。
嘉南に到着した與一は、乾季で雨が一滴も降らず育たない穀物や海岸に近い田畑を枯らす塩害、毎日4、5時間かけて過酷な道のりを水汲みに出かける農民の姿に衝撃を受けました。さらに深く掘りすぎた井戸の水に溶け出した、ヒ素の影響による烏脚病と呼ばれる病気の患者の悲惨な状況など、水不足が引き起こしている悲劇を目の当たりにし、嘉南全土を潤す巨大な灌漑設備を造ろうと決意します。

 

常識破りのダム建設計画

視察と調査を終えた與一は烏山頭ダムの建設計画を台湾総督府に提出。構想するダムは、堰堤長1273メートル、高さ56メートル、貯水量は1万5千万立方メートル。これは現在、東京都民が使用している水を貯水している狭山湖の貯水量の7・5倍にあたります。
2本の巨大な川から水を引き、途中にある山の下を掘り抜いてトンネルを造り導水するなど、日本でも行ったことのない大規模な工事でした。常識破りの計画でしたが、総督府は建設を許可。與一は具体的な工事建設案を作成するため嘉南に向かいます。
約80人の技術員を率い、自らも寝る間を惜しんで測量を進め、約半年で工事建設案、予算案を完成させました。異例のスピードでの計画は、一日でも早くダムを完成させ、人々に衛生的で健康的な、余裕ある人生を送ってほしいという思いからでした。
総工費3800万円という莫大な予算を必要とする計画に、大蔵省は当初難色を示しますが、與一は当時日本を襲ったコメ不足を例に出し、この灌漑工事が成功すれば、日本にも送れるほどの米を作ることができると力説。1920年、帝国議会の臨時議会で、ついに許可されました。

 

地元の農民を説得し ともにダムを建設する仲間に

しかし、清朝に支配されていた時代、「ダムを造る」という役人に先祖がだまされた経験があることと、負担金が必要なことなどから、地元に住む農民たちは工事に反対。與一はダムがどれだけ彼らの生活を豊かにし、農業に貢献するかを粘り強く訴え、いつしか與一の情熱に心打たれた農民たちは協力を約束しました。
工員には地元の農民も雇われ、ともにダム建設を行うことになったのです。
ダム工事のためには、作業員ら従事者が住むための宿舎がまず必要でした。当時、台湾南部は未開の地も多く、マラリアなど亜熱帯特有の疫病も蔓延していましたが、「家族と一緒に住み、毎日顔を合わせることが何よりの原動力となる」と考えた與一は、家族全員で住める宿舎を完備。風土病対策のための衛生管理を徹底し、定期健診も実施することにしました。
2000人以上の作業員たちとその家族が生活に不自由しないよう、学校や診療所、売店などのほか、テニスコートや弓道場などの娯楽施設まであり、子どもたちは台湾人も日本人も関係なく学校に通いました。與一は自らも妻・外代樹と子どもたちを呼び寄せます。外代樹は他の作業員の家族ともすぐに打ち解け、慕われていました……。

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