十五歳の覚悟
「うちの子は、最近部活も勉強もやる気が出ないようなんです。どんな言葉をかけたらよいでしょうか」
こういう質問をいただいたとき、私は、若くして獄中斬首された、惜しみて余りある幕末の天才・橋本左内の話を親御さんにします。
橋本左内は、福井藩の藩医の子として生まれました。幼いころから学問を好み、俊秀の誉れも高かったのですが、その志の高さゆえに、自分自身に対してたいへん厳しい少年でした。
「自分は疎直で柔漫(おろそかで気の弱い怠け者)なので、いくら勉強しても進歩がないように思う。これではとても父母の恩に報い、主君のお役に立つ人間になれない」。そう嘆いた左内は、数え年十五歳のとき『啓発録』を記します。大意は以下の通りです。
「遊びたい、怠けたい、母に甘えたいというような幼稚な気持ちがあっては、何事も上達せず、世に知られる人物となることはできない。まず稚心(ちしん)を去るべし。昔の武士は、功績をあげれば名誉を歴史に記し、戦いに敗れれば自分の遺体を野原にさらす覚悟があった。お金や地位、命の危険や困難などで自分の心を変えたりしない、剛毅屈強な気質があった。自分もかくありたい。志のない者は虫けらと同じだ。油断せず常に勉学し、良き友と交わり、必ずや古代の聖人君子、英雄豪傑の如くなろう」
十五歳の少年は、この世の楽しみも安穏な未来も捨て、人生を私する心を捨てました。そうして己を叱咤激励し、不断の努力精進を続けたのです。
人の病を治し、国をも直す真の医者を目指して
十六歳になった左内は大阪へ行き、優秀な人材が集まる「適塾」に入り、緒方洪庵から蘭方医学を学びます。
やがて左内は、夜になると適塾を抜け出して出掛けるようになりました。学友は、左内が夜遊びしているのだと思いましたが、実は、天満橋の下へ行き、住む所もお金もなくて医者にかかれない病人を診ていたのです。人助けの気持ちと同時に、自分が学んでいる医学が本当に人の役に立つ学問なのかどうかを確かめたかったのです。
十九歳で家督を継ぎ、藩主の側近となった左内は、外国に負けない日本をつくるために、福井藩の教育制度を改革し、語学・造船・鉱山・化学・機械などを藩士たちに学ばせました。
さらに左内は、日本の未来を考え、優れた人物である徳川慶喜を次の将軍とするために各地を飛び回り、朝廷や公家、名のある人物に働きかけました。左内の考えと対立する立場にあった幕府の重役・川路聖謨は、左内の新鮮で論理的な意見と、日本を思う無私無我なる熱い心に打たれ、自らの考えを変えました。こうした左内の己を捨てた行動を怖れた幕府の井伊直弼は、彼を処刑して命を奪いました。
享年(天から与えられた命の年数)二十六歳。しかし、左内に何の悔いがあったでしょうか。
若者は、いつまでも命があるように思い、時間を湯水のように浪費しがちです。しかし、「いつまでもあると思うな、命」です。子供たちや若者が橋本左内の生涯を学び、この世で与えられた時間を大切にして自分を磨き、かけがえのない人生を熱く燃焼させて生き切ってほしいと思います。
Illustration by Mika Kameo
奥田敬子
早稲田大学第一文学部哲学科卒業。現在、幼児教室エンゼルプランVで1~6歳の幼児を指導。毎クラス15分間の親向け「天使をはぐくむ子育て教室」が好評。一男一女の母。