介護は「家族に重い負担がかかる」と、つらく苦しいイメージを持たれている方も多いのではないでしょうか。
今月の読者の手記では、ご両親を介護した経験を持つ武藤幸美さんに、介護を通じての学びや神秘体験をうかがいました。
末期ガンの父の介護
「お父ちゃんが調子悪いの。世話をする人が必要だから帰ってきて」
専門学校に通うために上京し、そのまま東京で仕事をしていた私のもとに母から連絡が入ったのは28歳のとき。
体調が悪く病院に行った父は、肝臓と腸にまたがった大きなガンが見つかり、すぐに入院生活が始まりました。
「なんで? なんで私なの?」
「あんたは若いから、まだ仕事はいくらでも見つかる。私はもうこの年になって次はないから、今仕事を辞めるわけにはいかない」
きっぱりとそう言い切る母。上の姉たちも結婚して遠方に住んでいたり、子どもが生まれたばかりだったりで、末っ子でいちばん身軽な私に白羽の矢が立ったというわけです。
ちょうど勤め先のブティックが店をたたむタイミングとも重なり、私は父の介護をすることになりました。
当時は家族が付き添って病院に泊まり込むのが当たり前。
父の病室で、補助ベッドで寝泊まりをしていたのですが、父は幻覚でも見ているのか、夜になると人が変わったように暴れるのです。
いきなり起き上がると、そばにあるものを手荒に投げ捨て、ものすごい顔つきでドタバタと身体を動かします。
私は怖くてたまりませんでした。
身体を拭き、オムツを替えながら、昼間はほとんど寝ている父の顔を眺めます。「……これ以上、何をしてあげたらいいの」限界が近づいているのが、自分でもわかりました。
天に通じた祈り
不安でいっぱいだった私は、父の豹変ぶりについて信頼する先輩に相談しました。
すると、こう言われたのです。
「お父さんはそんなことをする人じゃないでしょう? 今は弱っているから、悪いものに乗っ取られてしまっているだけ。本当のお父さんはきれいなダイヤモンドみたいな存在だって信じてあげるのが、あなたの役目だよ」
不思議な話でしたが、先輩の言葉には説得力があって、素直に頷うなずくことができました。(本来のお父ちゃんに戻ってもらいたい。今のまんまの姿で他界させてしまったら、絶対に後悔する)
「神仏がいるならば、私の命を預けます。だからどうかこの私を使って、父を本来の姿に戻してください」
変化はすぐに現われました。ある朝、お祈りをして部屋に戻ると、鬼のようだった父の形相が穏やかな顔に変わっているのです。笑顔で迎え入れてくれる父の様子に、私はただ驚くばかり。(うそ、こんなことってあるの! 祈りって届くんだ)
そのころはまだ幸福の科学は存在せず、特定の信仰があったわけではありません。それでも「神仏は本当にいる」と確信を持つようになりました。
さらに、何も言っていないのに、いつの間にか父もよく手を合わせるようになりました。そんな人ではなかったのに、「神様のとこへ行く」と、近くの神社に散歩に行きたがります。
暑い盛りでした。身体の弱った父と腕を組んで、ゆっくりと神社の境内を歩きます。父の頭には、私が買ってきた麦わら帽子。そのころになると私は、父親に対して言い知れない「愛おしさ」を感じるようになっていました。自分の親なのに、死んでいく人の身体であるのに、まるで子供に向ける愛情のような愛おしさでした。
4人姉妹の末っ子として生まれた私は、両親から特に目をかけられた覚えもなく、自由な反面寂しさを感じながら育ちました。大正生まれの両親ですから、女の子が4人も続けば、末の娘などある意味で〝いらない子〞のようなもの。職人気質で気性が荒いところのあった父は「いい父親」とは程遠く、特に思い出もありません。それなのに、介護をしたことでこんな気持ちになることが、本当に不思議でした。
なんで私はまだ生きてるんだろう……
父が亡くなった翌年、私は30歳で結婚しました。子育てに奔走していたころ、件の先輩から連絡が入ったのです。
「日本に救世主が出ているから、あなたに教えなきゃいけないと思ったんだ。その人の名前は大川隆法。幸福の科学っていうのを始めたんだよ」
ちょうど愛知県で、大川隆法総裁の法話を収録した映像が観られる集まりがあると聞き、参加してみたのです。
(すごい、この方は本当に世界を救おうとされている!)
大川総裁は、見た目にはスーツを着た真面目そうな男性でした。しかし、その全身にとても大きな力が内包されていることが、理屈ではなく伝わってきました。そして、「なぜかはわからないけれど、この方のお役に立ちたい」という思いがこみ上げてきたのです。
「今日、法話を聞きに来られた方は入会できますよ」
そう案内され、「私でも役に立てるなら会員になります」と、すぐに入会申込書に名前を書きました。それを知った母と姉たちも、「あんたがなるなら私も」と次々に幸福の科学の会員になり、ともに教えを学ぶようになりました。
認知症の母の介護
そして3人目の子どもが生まれたころ、今度は体調が優れなくなってきた母と一緒に住むようになったのです。
足腰の不調を理由に、母はだんだんと外出を厭うようになり、それに比例して、いわゆる「ボケ」が始まりました。次第に介護が必要になり、2014年に亡くなるまでの最後の5年間は、ほぼ付きっきりで過ごしていました。
ひと月に一度は必ず、浜名湖のほとりにある中部正心館に連れていきました。体調がだいぶ悪化して、幸福の科学の本を読んだり、研修を受けたりできない母に、「せめて主とつながっていてもらいたい」という思いで、お百度(おひゃくど)参りに行っていたのです。
実はその一方で、幼いころあまりかまってもらえなかったことから、私はずっと母に感謝の思いが持てずに悩んでいました。ある日、母が寝た後で思い切って講師に相談してみました。
「あなたは自分でその母親を選び、お願いして生まれてきたんだから、産んでくれただけでもよかったんじゃないの? それに大事に育てられていたら、今のように強く生きられなかったでしょう?」
そう言われてハッとしました。
(私が自分でこの人を選んだんだ)
ふつふつと感謝の思いがこみ上げてきます。
(私をこの世に産んでくれて、ありがとう)
神の愛に触れたとき
母は、時折はっきりとした言葉で「ありがとう」「お前を生んでよかった」と言ってくれました。〝自分はいらない子〞だと思っていた私にとって、その言葉はとてもうれしいものでした。
晩年、下痢が続いていた母のお世話をしていたときのことです。間に合わず、トイレで着替えてもらおうと服を脱がせた瞬間、また……。母の下着や服、そして私も、床も一面汚れてしまいましたが、初めてのことでもありませんでしたし、私は何も考えずに掃除を始めました。
「わりぃなぁ。ありがとな」
母がすまなそうに、こう言った瞬間でした。突然、パーッと、熱いくらいの
まぶしい光に包まれて、信じられないほどの幸福感が溢れてきたのです。
(なに? なんで?)
ぼろぼろ、ぼろぼろと涙が出てきました。トイレで、粗相の始末で床を拭いて……なぜその瞬間だったのかはわかりませんが、燦々と輝く光の真ん中に自分がいるのがはっきりとわかったのです。
(私は主に愛されている! 今、私は世界中でいちばん幸せだ)
心からそう実感しました。後にも先にも、あれほどの神秘体験を味わったことはありません。
「仏を見たくば、愛を知れ。愛とは何かを知れ。愛とは何かを知った時に、あなたがたは仏を見たのだ。仏を知ったのだ。己の内なる、その最大なるものを見つけよ。あなたがたが愛のなかを歩む時、そこに仏はいる。」
大川総裁は書籍『無限の愛とは何か』でこのように説かれていますが、無心になって介護をしていたあの瞬間、私は神仏の愛に触れたのだと思います。介護を通してこれだけの経験をいただいたことに、ただ感謝しかありません。
ありがとうのシャワー
母と最後に言葉を交わしたのは、亡くなる2、3日前のことでした。病院のベッドで、荒い呼吸で乾いてしまった口の中を少しずつ濡らしてあげると、母は私の顔をじっと見つめて、ひたすら「ありがとう」を繰り返すのです。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……」
それはもう、〝ありがとうのシャワー〞を浴びているようでした。
「何言ってんの、ばあちゃん。私がありがとうだよ」
もう寝ていいよ、と震える声で伝えたのが、母との最後の会話でした。
母の遺体は葬儀の前に湯灌をお願いしたのですが、きれいになって布団に横たわる姿を見たとき、私は立っていられなくなりました。
母が、あまりに神々しかったのです。
(この人は私の先生だったんだ――)
母は、老いてボケてしまったその姿で、身を挺して「神の愛とは何か」「感謝とは何か」を教えてくれたのです。その尊さが一気に押し寄せてきて、私は衝動的に、畳に額を押しつけて土下座をしていました。
「人生の最後の時間を私にくれて、ありがとう」
両親の命がけの愛情
私が母を介護していたことを知る方から、「介護が上手だから、介護の仕事をしたら?」と言われることがあります。でも私は介護が得意なのではなく、自分の親だから介護できたのです。
不思議ですが、介護中は父と母のことが愛おしくてたまらなくて、まるでわが子に対するような気持ちで接していました。「この人の笑顔のために、自分は何ができるんだろう」と、ただそれだけが原動力だったのです。
もしかしたら介護をされる人は、介護する側にとって大切な〝何か〞に気づくための時間を与えてくれているのかもしれません。父が豹変したり、母がボケてしまったりと、〝醜みにくい姿〞もありました。けれど、父と母がそんな姿を示してくれなかったら、私には学べないことがあったのです。
姉妹4人の中でひとり介護にあたった私を、貧乏くじを引いたように思われる方もいるでしょう。でも私は父と母から、人生の最後に命がけの愛情をもらったと思っていますし、その愛情を一人占めできたことを、姉たちに申し訳なく思っているぐらいなのです。
父からは、祈りは届くということ、そして、相手のダイヤモンドのような本質を信じるということを。
母からは、愛と感謝によって人とつながることの幸福を。
介護によって私がいただいたのは、本当に大きなものでした。
これから、私の人生に何が起こるかはわかりません。でも、幸福の科学に入信したときの「お役に立ちたい」という初心のままに、神様の采配に従って、必要とされる場所で力を尽くしていくつもりです。
(「Are You Happy?」2019年1月号)