真実哉教授の 時代を創った女性たち――小野小町

純粋な思いと恋心を
素直に和歌に託した
美貌の女流歌人

絶世の美女として名高い小野小町。日本では、クレオパトラ、楊貴妃と並ぶ世界3大美人のひとりとされています。日本三大美人である「本朝三美人」にも、衣通姫、藤原道綱母とともに小野小町が選ばれており、その美しさは確かなものだったのでしょう。
出生についてくわしくは謎に包まれていますが、平安時代の初期に生まれ、仁明天皇に更衣として仕えていたといわれています。天皇の妻には順位があり、上から皇后、中宮、妃、女御、更衣のため、小野小町は妻のなかでは一番下の位だったことになります。女御までは専用の部屋や大きな屋敷が与えられていましたが、更衣は複数人で大部屋に住み、ひとりずつのスペースを屏風などで区切って生活していました。その一角を“町”と呼んでおり、それが小野小町という呼び名になったといわれています。小野小町は名前ではなく、小野一族の出身で、更衣として町の一角にいたためにつけられた呼び名なのです。

天皇の妻の中では一番下の身分でしたが、類稀なる美貌を持ち、教養にも長けていました。
女流歌人としての腕前は、紀貫之が古今和歌集の序文で「近き世にその名きこえたる人」と挙げた6人である“六歌仙”に選ばれるほど。さらに三十六歌仙や女房三十六歌仙にも選出されており、小野小町は在原業平らと並ぶ、平安初期を代表する芸術家のひとりでした。
古今和歌集などの勅撰集は天皇の命により選出・編纂された正式な和歌集です。古今和歌集に歌が18首も収められている小野小町は、まさに天皇のお墨付きをもらったスーパースターでした。
優れた和歌を詠むにはあらゆる知識が必要で、特に中国の漢詩などの教養が不可欠。小野小町の歌は非常に情熱的で、女性の心情を素直に詠んだものが多いのですが、それは深い知識と教養に裏打ちされた表現だったといえるでしょう。

小野小町の作品で特に有名なのは、

 

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

という一首。これを一般的に訳すと、(桜の花の色は、むなしく色あせてしまった、私が長雨を見ているうちに。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに)となり、諸行無常を訴える歌と言われています。しかし、単なる見た目の美しさとその衰えだけを歌にしたという、文法的な訳ではなく、小野小町の恋心が表れた歌という見方こそが正しいと感じます。
いくら美人でも、外見が美しいだけなら後世までは語り継がれません。小野小町は美貌とともに非常に純粋な心を持ち、その心の美しさが外見にも表れていたのでしょう。遺された作品を見ると、小野小町は常に恋をしていたことがわかります。
現代のように医学が発達していない平安時代に92歳まで生きたとされていますが、それは常に恋をすることで、アンチエイジングを行っていたのでしょう。小野小町が隠しきれない恋心を詠んだ歌は数多く、

うたたねに 恋しき人を 見てしより
夢てふものは たのみそめてき
(うたた寝していたら、恋しい人の夢を見ました。夢は頼りなくはかないものだけれど、その人の夢を見ることを頼みに思う、夢で逢いたいと願うようになりました)

など、心情を赤裸々に表現した歌が古今和歌集にはたくさん掲載されています。これらが優れた歌として勅撰集に選ばれたということは、当時の宮廷や貴族に、恋心を解する人が多くいたということでしょう。小野小町は在原業平や文屋康秀ら王朝内の貴族である文人たちと歌のやり取りもしており、宮廷文学の中心に存在していたといえます。

宮廷から命じられ、古今和歌集の編纂に携わった紀貫之は、序文の中で「小野小町は古の衣通姫の流れなり」と書いています。美貌についてか、歌についての言葉かはわかりませんが、衣通姫と並ぶほどの確固たる存在だったと評しているのです。古今和歌集などの勅撰集に数多くの歌が掲載され、紫式部らその後の女流文学の流れをつくったともいえる小野小町。外見の美しさと心の輝きを併せ持ち、恋心など女性の美しさを和歌に託したその生涯は、純粋な心で生きることこそが、ほんとうの美しさにつながることを教えてくれています。

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鈴木真実哉 Mamiya Suzuki

聖学院大学政治経済学部教授

1954年生まれ。ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ経営成功学部ディーン、聖学院大学政治経済学部教授。専門分野の金融論のほか、貨幣論、シュン ペーター理論などを研究。著書に『格差社会で日本は勝つ』(幸福の科学出版)、共著に『カオスの中の貨幣理論』(雄松堂出版)、『金融入門』(昭和堂)な ど。