【ヘレン・ケラー物語】信仰と救済を胸に、奇跡の一生を送った聖女

幼くして「見えず」、「聞こえず」、「話せず」の三重苦の障害を負いながら、恵まれない人々への救済に人生を捧げたヘレン・ケラー。
その神への愛に満ちた人生の物語を紹介します。

 

三重苦の苦しみとサリバン先生との出会い

1880年6月27日、アラバマ州の裕福な家庭にヘレン・アダムス・ケラーは生まれました。ヘレンは明るく好奇心旺盛な子供でしたが、1歳7カ月のときに突然高熱を出し、視覚と聴覚を失ってしまいます。
ヘレンは成長するにつれ、自分の気持ちを伝えられないことに対してひどいかんしゃくを起こすようになります。しつけに困った父親は、パーキンス盲学校に家庭教師の派遣を依頼しました。そしてヘレンが6歳のとき、家庭教師としてアン・サリバン・メイシーがやってきたのです。

サリバン先生はヘレンに、指文字で言葉を教えようとします。手で食事をしていた獣のようなヘレンと、ときには何時間も取っ組み合うこともありました。しかしサリバン先生は厳しくも深い愛情でヘレンに向き合い、「従順さの美徳」や「世界の全てには名前がある」ということを忍耐強く教えたのです。
言葉を通して学ぶ喜びを知ったヘレンは、どんどん知識を吸収していきます。点字の教科書もほとんどないなか、ヘレンはサリバン先生に助けられながら努力を続け、1900年、当時のハーバード大学の女子部、ラドクリフ女子大学に入学しました。

ヘレン・ケラー②

 

救済の人生の始まり

在学中、ヘレンはスウェーデンボルグの『天界と地獄』という書籍に出会い、その神秘思想に強く惹かれます。スウェーデンボルグの「肉体にどんな障害があっても、その魂は自由で健全である」という思想は、生涯にわたって彼女の強い支えになりました。

1904年、優秀な成績で大学を卒業したヘレンの胸には、障害のある人々を救いたいという強い思いがありました。1906年に、マサチューセッツ州の盲人委員会の委員に就任。「視覚障害者のための職業訓練の推進」、「新生児の目の病気を防ぐための衛生管理」、「各地でバラバラだった点字の統一」の三点を中心とした救済活動に従事していきます。

ヘレン・ケラー①

 

悲しみを乗り越えての来日

ヘレンは休むことなく精力的にアメリカ全土を講演して回りました。しかしサリバン先生は、次第に体調を崩していきます。1936年、サリバン先生はヘレンに見守られながら、息を引き取りました。ヘレンは深く悲しみましたが、救済の歩みを止めることはありませんでした。
翌年の1937年には初めて日本に訪れ、各地で視覚障害者のための講演会を行います。太平洋戦争を挟んだ1948年と1955年にもヘレンは来日し、日本の福祉の前進に大きな影響を与えました。

ヘレン・ケラー③

 

使命と神への愛に生きた救済の聖女

1968年、世界の障害者の救済に尽くしたヘレンは、コネチカット州の自宅で静かに87年の生涯を終えました。彼女の亡骸は、ワシントン大聖堂の地下でサリバン先生と共に眠っています。
生前ヘレンは、「私は自分の障害を神に感謝しています。障害を通して、私は私自身、使命、そして神を見つけることができました」と語っています。三重苦の試練を背負ってもなお、救済の一生を送ったヘレン。彼女を支えたのは、周囲への感謝と、同じ立場に
ある人を救いたいという情熱、そして神への深い愛だったのです。

 
(2015年1月号)

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