<野口英世の母シカ>息子のために身を粉にして働き、祈り続けた母性の象徴

いまも世界で語り継がれる功績を持つ偉人たち。彼らを育てたのは、どんな母親だったのでしょうか。

 日本が世界に誇る医学者、野口英世。医学史に大きな功績を残した英世の成功の影には、母・シカの存在がある。
 1876年、英世は福島県の小さな集落で生まれた。家は貧しく、父は酒と博打に溺れ、シカの日雇い労働でどうにか生計を立てていた。

 英世が1歳半のとき、事件が起こる。英世がいろりの灰に左手を突っ込み、大やけどを負ったのだ。村には医者がおらず、いたとしても治療費など払えない。村の僧侶が軟膏を塗り、祈祷をするのが精一杯だった。
 やけどは治ったが、指は握ったままくっつき、松の木の瘤のようになってしまった。自分の不注意が原因と後悔の念に苛まれたシカは、今まで以上に必死に働いた。昼は野良仕事をし、夜は湖で小魚やエビをとって10㎞以上の距離を担いで売り歩いた。さらに冬場は往復約50㎞の雪深い道のりを、何10㎏もある庄屋の荷を担いで運ぶ、男性でも嫌がる仕事をこなした。
「英世の左手では農業は無理だ。私が動けるうちに、少しでも多く稼いでおかなければ……」
 懸命に働く母の姿を見て育った英世には、母への感謝と思いやりの心が育まれていった。
 貧乏の上に息子は大やけど。そんなどん底生活でも、シカは前向きに働いた。その根底には、シカが祖母から受け継いだ観音信仰がある。つらくても信仰心を忘れなければ道は開けると信じていたのだ。

 やがて、せめて学をつけてほしいというシカの願いもあって、英世は小学校に入学。しかし同級生に左手をからかわれるため、勉強にも身が入らず、休んでばかりいた。それを知ったシカは英世を抱きしめてこう言った。
「不自由な手にしてしまった私を許しておくれ。でも、いま勉強をやめたら、なんにもならないよ」
 涙を流して詫びるシカの姿に心を突き動かされた英世は猛勉強を開始。4年生のとき、先生の代わりに勉強を教える「生長」になった。
 それを聞いたシカは、「生長さんがこんなつぎだらけの着物では」と、苦しい家計をやりくりして当時まだ珍しかった洋服を仕立てた。

 小学校の卒業試験で高等科の先生の目に留まった英世は、援助を受けて高等科に進む。そこで英世は左手についての作文を書いた。「この手でつらい思いをたくさんした。でも母の気持ちを思うと頑張ろうと思う」という内容が先生と級友の心を動かす。「野口くんの手を治してあげよう」とカンパを募り、手術代が集まった。
 手術は無事に成功し、短いながらも五指が動かせるようになった英世は、自分も人を助けたいと医者を志す。高等科卒業後は手術を受けた病院の書生となり、わずか20歳で医師免許を取得した。
 そして細菌の研究をするためアメリカに渡る。蛇毒の研究など数々の論文で注目を浴び、英世の名前はアメリカで知れ渡っていった。
 そのころ、40歳を超えたシカは産婆としても働きはじめる。それを聞いた英世はアメリカから最新の産婆の道具を送ったという。

 明治44年、アメリカから10年以上帰らない英世にシカはひらがなを懸命に思い出し、「どうかはやくかえってきてください、一生のたのみです」などと心境を綴った手紙を書いた。
 さらに英世の友人もシカの写真を送り、帰国を促す。自分の記憶より年をとったシカの姿に涙を流した英世は帰国を決意する。

 大正4年、英世は15年ぶりに帰国し、全国各地での講演の旅にシカを伴った。シカは全国を夢のような気持ちで巡り、道中の英世のシカへの献身的な世話に、周囲の人々は感心したという。
 そして大阪の料亭で開かれた歓迎宴会で、有名な芸者の歌や踊りを見向きもせず、英世はシカに「このお刺身を食べてください」などとひたすら世話を焼いた。芸者は「あんなに偉い先生が……」と、怒るどころか感動して泣いたという。
 その様子は新聞でも大々的に報道され、日本中が英世の親孝行ぶりに感動した。

 英世がアメリカに帰ってからも、シカは英世との写真を眺めては思い出に浸っていた。その後も元気に働いていたが、大正7年、流行りのスペイン風邪にかかってしまう。観音様に英世の成功を感謝しながら、66歳で息を引き取った。
 シカは産婆として2000人以上を取り上げたが、すべて安産だった。「お産のときは必ず観音様にお祈りをしていました。観音様が力を貸してくださったのでしょう」と話していたという。

(2011年4月号)

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