2012.08沖縄ご夫婦アイキャッチ

沖縄を見つめ続けた夫婦が語る沖縄の姿「アメリカ統治時代のおかげで いまの沖縄があります」(2012年8月号)

沖縄に生まれ、統治時代も復帰後も、沖縄の復興と発展のために力を尽くしてきたKさんご夫妻。見つめ続けた沖縄の真実の姿とアメリカとの関係、米軍の存在意義についてお話をうかがいました。

話してくれたのは…
Kさんご夫婦
沖縄県出身。ご主人は満州開拓、特攻隊志願兵を経て終戦後沖縄に戻り、アメリカ統治下で米民政府、市役所に勤務したのち、定年まで銀行勤務。奥様は戦時中「ひめゆり部隊」として訓練を受け、終戦後は小学校教員として多くの教え子を持つ。コザ市在住。

終戦時の那覇は焼け野原

ご主人 私は10代で満州に開拓に行き、その後、特攻隊に志願したんだけど、出撃前に敗戦になって。沖縄に帰れたのは終戦から1年後だったかな。那覇が一面、焼け野原で驚いたよ。

奥様 私は沖縄戦のころに女学校4年生でしたから、「ひめゆり部隊」として戦闘に参加しなさいと言われていました。

ご主人 家族は死んでいると覚悟していたけど、みんな生きていた。どうやら敵が上陸するという情報が入っていて、北に逃げるよう命令があったらしい。

奥様 私も戦闘に参加するはずが、北に逃げるしかなくて、結果的に命が助かりました。

アメリカの復興支援

奥様 終戦当時、小学校の教員をしていましたが、反米感情から学校では毎月のように祖国復帰デモの動員がかかっていました。確かにアメリカ兵による事件もありましたが、学校の教材など、助けてくれることも多くあった。だから私は参加しませんでした。教え子にも「人間に、本当に悪い人はいないんだよ」と教えていたんです。

ご主人 米軍は移動のたびに、使わないテントや家具、衣類などを置いて行ったから、拾ってバラックを建てたりしてね。

奥様 アメリカ本土からも、古着や食べ物などの「おくりもの」がたくさん届きました。当時は着の身着のままだったから、とても助かりましたよ。

1948年から1958年までB円が通貨として使用され、1958年以降はアメリカドルが使われた。

紙幣

1952年8月に開催された、米琉親善柔道大会。

柔道大会

米軍の様々な支援のかたち

奥様 沖縄の復興はアメリカのおかげも大きいと思います。でも戦前・戦中の反米教育を受けた人たちは、アメリカの善意や援助も「当然」だと思っていました。米軍基地から食料品などを盗んできて、誇らしげに「戦果」なんて言ったりして。

ご主人 米軍は知っていたけど見過ごしてくれていたね。あのころ花形の職業といったら、米軍の炊事勤務。余りや食べ残しなんかは家に持って帰れるし、食材を持って帰るのも、米軍は見て見ぬふりをしてくれたから。

奥様 養豚をやっていた家は、基地から残飯をもらって豚のエサにしていましたが、米兵がまだ食べられるものをきれいに詰めて、こっそり忍ばせてくれたそうですよ。そうやって、そっと支援してくれていたんです。

統治時代、図書室・ホール・音楽鑑賞室が完備された米国民政府設立の文化施設「琉米文化会館」が各地に建設された。復帰時には日本政府に買い上げられ、各自治体に無償譲渡された。

文化会館

物質・精神面で支えられて

ご主人 アメリカに統治されたから、よかったようなもんだ。万一中国なんかに占領されてたら、大変なことになったはずだよ。私は戦後しばらく米民政府に勤めていたけど、生活が苦しかったから、何人か集めて「給料が安すぎて生活できない。だからみんな泥棒するんだ」と抗議に行った。そうしたら、少佐が「給料はアジアで統一されているから上げられない。物資で支援するから必要なものを言ってくれ」と言ってくれたんだ。殺される覚悟だったから、驚いたよ。民主主義っていいなぁって。

奥様 戦前、沖縄は本土に劣等感を持っていたと思います。でも今は、沖縄人として誇りを持てている。それは統治時代に教育などで、アメリカの思想や考え方を取り入れたのも大きいと思います。アメリカの物質面、精神面における支援のおかげで、今の沖縄があるんです。

琉球列島米国軍政府庁舎で働く現地住民。

政府庁舎

 


 

ほんとうの沖縄についてよくわかるBOOKS

『決断できない日本』

『決断できない日本』

ケビン・メア 著 

文芸春秋  ¥819

『誰も語れなかった 沖縄の真実』

『誰も語れなかった 沖縄の真実』

惠隆之介 著

ワック出版  ¥1,470

『迫りくる! 中国の 侵略から沖縄を守れ!』

『迫りくる! 中国の 侵略から沖縄を守れ!』

幸福実現党 幸福の科学出版  ¥650

cover_201208
続きは本誌へ