2012.07日本を守る

【国を守る】もし明日、 日本がなくなったら?(2012年7月号)

領土を拡大しようとする国々に囲まれながらも“平和な”国、日本。しかし、この平和も、日本という国があることも、「あたりまえ」ではありません。このコーナーでは、「国を守る」をテーマに、ある日突然、自分の街が日本ではなくなってしまった南樺太(からふと)と、中国に侵略された国・チベットをクローズアップします。

【樺太から引き揚げた女性たちの戦慄の記憶】

「住んでいるところを奪われるのはほんとうにあっという間でした」

かつては日本の領土で、40万人もの日本人が生活していた南樺太。しかし、太平洋戦争終結直後、ソ連軍が侵攻し、占領。多くの軍人や民間人が犠牲になり、生き延びた人々も引き揚げまで、ソ連占領下の樺太での生活を余儀なくされました。一瞬にして故郷を奪われ、占領下で生き、必死の思いで引き揚げた「生き証人」の方々に、当時の状況を話していただきました。

樺太での豊かな暮らし

Aさん「私と妹は樺太の落合で生まれ育ちました。大家族だったけど、大きな農家で食べ物には困らなかったね」
Bさん「私はオウサカという内地のほうだったけど、ニシンの季節には台車いっぱいに運んでいたのをよく覚えてる」
Cさん「樺太は海が豊かでね。それでも戦争が激しくなるにつれて、物資が不足していって。学校でも授業をせずに防空壕を掘ったり、弾を磨いたり」
Dさん「竹ヤリ訓練なんかもしましたね」

終戦、そしてソ連軍侵攻

Cさん「終戦から1日か2日経ったころ、飛行機が飛んできたんです。“日本の飛行機だ!”ってみんなで屋根に上がってワーッて手をふったの。まさか終戦になってから、敵機が攻めてくるなんて思わないでしょう? でも兄が、“この飛行機、マークが違う!”って。それで慌てて屋根から降りたの」

Aさん「私は体が弱くて、豊原の病院に入院してたの。終戦の10日くらい前に、付き添いに来ていた母が駅に行ったら、着いた汽車から看護士さんが降りて、血のついた包帯や脱脂綿を投げたり、水を補給したりしていて。“ここにいては危ない”と思った母は急いで病院に戻って、私を連れてすぐに汽車に乗ってうちに帰ったのね。そしたらその汽車が最後の汽車で、豊原もその後爆撃されて、一面焼け野原になったって」

Dさん「ソ連軍の飛行機が攻めてきて、ババババッて撃ってくるから、急いで山の大きな防空壕に逃げました。そこで何日か過ごしていたら、いきなりソ連兵が防空壕に入ってきたんです。ただ恐ろしいの一心でしたね。どんどん入ってきて、貴重品や生活用品を勝手に持って行ってしまって」
Cさん「うちは昼食のときに、突然ソ連兵が土足で入ってきたの。ビックリして誰も動けなかった。ちょっとでも動くと鉄砲を突きつけてきてね」

残虐なソ連の囚人たち

Bさん「終戦後、すぐに真岡が艦砲射撃にあって、その音が聞こえてきたけど、情報がないから雷だと思ったの。その後、攻め込まれているとわかって、必死で豊原に逃げました。豊原まで8里だから、逃げる途中で、赤ん坊や歩けないお年寄りは置いていかれたりね……。私の住んでいたオウサカは兵舎があったせいか、激しい戦いになった。駅前の防空壕でも多くの人が亡くなって。私たちはすぐに逃げたから助かったんだね」

Aさん「ソ連兵に捕まると強姦されてしまうから、母も姉たちもみんな坊主にして、男物の服を着て」
Dさん「私も坊主にされて、詰襟を着せられました。母は私たち家族と離れて、女性みんなで川を越えて、遠くまで逃げたそうです」
Cさん「ソ連は最初に正規の軍隊ではなく、囚人を送り込んだの。だから強盗や強姦、殺人など、やりたい放題されてしまったそうよ」
 

ソ連占領下での生活

Cさん「昭和22年に引き揚げるまで、私たちは2年くらい樺太に住んでいたね」
Bさん「食べるものがないから、近くの占領された兵舎に行って、ソ連兵に時計を渡して、こっそりお米をもらったりして。壊れた時計を一時的に直して、お米と交換したこともあった(笑)」

Cさん「うちは牛を飼っていたから、牛乳と交換しにソ連将校の当番兵が缶詰やパンを持ってくるの。牛肉の缶詰とか、おいしくてよく覚えてますよ。ソ連も貧しかったから、アメリカからの支援物資だったんだろうね」
Bさん「豊原に逃げなかった親戚は“ソ連兵に殺されるなら”と毒を飲んで一家全員が自殺してしまって。その家の畑を耕してほしいと頼まれて、耕して食べつないだけど、苦しかったね」

死と隣り合わせの引き揚げ

Cさん「しばらくして、北海道に引き揚げることになったんだよね」
Aさん「まずは汽車で真岡まで行くんだけど、荷物運搬用のコンテナに入れられてね。中は真っ暗で、いつ発車するかも、止まるかもわからない。トイレなんかバケツにするしかなかった」

Dさん「やっと真岡についたら、今度は収容所に入れられて」
Aさん「あそこに1週間いたのかね。引き揚げ船がいつ来るかもわからなかった」
Dさん「生きてる人でも帰れるかわからないような状態だったから、祖父を置いていくしかなくて。もうすごく弱っていたから……。申し訳ないことをしたけど、連れてくることができませんでした」

引き揚げ船に乗るまでの恐怖

Cさん「やっと引き揚げ船が来て、船に一歩足を踏み入れたら、もう日本に帰れるわけ。でも、途中でロシア兵に止められたら終わり。ちょっと行動がおかしいだけで止められて、そうなったらどうなるかわからない。一歩踏み込むまで安心できない、あの恐怖がね」

Aさん「無事に船に乗れても、大変だった。船の底でみんなぎゅうぎゅうになって。食べ物も乾パンが少しとか、夏だったからか、冷凍のカボチャとか」
Dさん「北海道のほうについてからもひどかったですよ。すぐそばに陸地が見えているのに、検閲船に乗せられて」
Aさん「引き揚げ船に乗る前も、馬に打つような太い注射を背骨にされるんだけど、さらに1週間、検閲船で過ごさないといけない」
Cさん「ようやく北海道の地を踏めたら、今度はDDT。白い粉をザーッとかけられてね」

“日本”でのつらい日々

Aさん「私たちの両親は病気で、病院に行くために、検閲船に乗らずに先に函館に上がったの」
Cさん「私たちは甲板に出て見送ったんだけど、それが最後。父は9月の終わりに、帯広の病院で亡くなった。私たちももう北海道にいたんだけど、電車賃がなくてお見舞いにも行けなかった。引き揚げるとき、1000円分しか新紙幣に両替できなかったから」

Aさん「引き揚げてからの貧乏暮らしがつらくてね。何日も、お米一粒も食べられなかった」
Bさん「私は引き揚げ後、北海道の農家で住み込みで働いた。食べ物はたくさんあったけど、どうしてもおかわりって言い出せなかったの。“なんぼでも食べなさい”って言ってくれたんだけど、子どもなりに遠慮してね。生きるために家族みんなばらばらに生活して。母と暮らしたことはなかったよ」
Aさん「それに、近所で何か起きればすぐ“引き揚げ者がやったんだ”って言われてね」

Dさん「樺太に帰りたいって、あのころはよく思いましたね」
Aさん「私は89年に、墓参団で樺太に行ったんだけど、発展していなくてびっくりしちゃった。橋も鉄道も、戦前に日本が造ったものを全部使っていたし、道路は舗装されていない上にバスの床に穴が開いていて、乗ると埃だらけ。二度と帰りたいと思わなくなった」

国を取られるのは一瞬

Aさん「国や土地なんて、取られるときはほんとうに一瞬だよね」
Dさん「ある日突然、来るんですよ」
Bさん「あっという間だよね」

Cさん「今の人は、誰も本気にしないけどね。でも、外国が他国を奪うのは、本当にあっという間なのを私たちは身をもって実感した」
Aさん「私たちはもうすぐ旅立つんだから(笑)、若い人にしっかりしてほしいですよ。戦争はいやなものだし、戦争があったから国がこうなった、なんて聞くけど、その国を守るためにも国防は大事」

Cさん「愛国心をしっかり持ってほしいね。私たちだって、日本があったから帰ってこれた。それがどれだけありがたいか。国がなかったら、帰ることすらできないもの」
Dさん「祖父母やご両親が、苦労して守った日本を若い人にも、大切にしてほしいですね」
Bさん「今も危機は近くにあると思う。また故郷や国を追われることにならないよう、私たちもまだまだ頑張らないとね」
   (一同拍手)

Bさん「ひとりでも多く、日本を守ろうと思う方が増えてほしいね。それが、日本が本当に平和で幸せになる、いちばんの道だもんね」