近代女子教育アイキャッチ

日本の近代女子教育の曙「昭憲皇太后」

明治維新前後に始まった、日本の近代女子教育。
現在まで続く女性の地位向上の流れをつくった女子教育の夜明けに重要な役割を果たした、吉田松陰と昭憲皇太后の功績をご紹介します。

昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)
〔1849(嘉永2)~1914(大正3)〕

昭憲皇太后

女子教育を奨励し日本女性の鑑として後姿で導いた「日本国民の母」

治天皇の皇后として、また、大正天皇の皇太后(天皇の母)として国民に慕われ、尊崇を集めた昭憲皇太后。明治天皇を献身的に支え、率先して社会貢献に取り組んだ皇太后は、日本赤十字社や東京慈恵医院の設立に深くかかわったことなどで知られる。
一方で、明治天皇が日本の近代化を推し進めるために教育を奨励したことを受け、「これからの時代は女性も教育を受け、一定の見識を持たなければならない」と考え、女子教育の普及にも心を砕いた。

神仏への信仰
幼いころから誰に教わるともなく、朝、洗面を済ませると、神仏に手を合わせていたという昭憲皇太后。入内後は英照皇太后から、「神を信ずる心はやがて仏を尊ぶ心。仏を信ずる心はやがて神を尊ぶ心と思わしゃられますよう。ただ、誠の心をもて、いずれの道もご信心あらしゃりませ」とくり返し教えられ、ますます信心を深めたという。また、明治天皇崩御後しばらくは、周囲の者が心配するほど、一心に供養のための写経に明け暮れたと伝えられている。

治8年に開校した東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)には、多額のお手元金を下した上、開校式に行啓して、御歌「みがかずば玉も鏡も何かせむ まなびの道もかくこそありけれ」を下賜。これは日本初の校歌となった。
明治18年には、元女官の教育家・下田歌子を華族女学校(現・学習院女子中・高等科)の創建に当たらせ、同校には御歌「金剛石」「水は器」を下賜。こちらも校歌となり、良妻賢母教育を掲げる各地の女学校でも歌い継がれたほか、文部省唱歌として広く歌われるようになった。
東京女子師範学校と華族女学校には、その後もたびたび行啓している。
太后自身も、幼いころから勉学に励んだ聡明な女性であったという。
嘉永2(1849)年、京都の公家の名家・一条家に生まれた皇太后は、4、5歳のころから姉たちに交じって、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの手ほどきを受ける。さらに、漢文の素読をこなし、書道、茶道、華道、琴などもたしなむ、教養深い姫君として育った。
また、優れた歌人としても知られ、生涯で3万首以上の歌を詠んだという。
后となり、東京へ移ってからも、常に新しい知識を学び続ける姿勢は変わらなかった。天皇に欧米の状況や歴史を進講していた侍講(天皇に学問を教える官職)に自らも講義を依頼し、見聞を広め、欧米を視察した黒田清隆開拓次官からは、欧米の女性が男性と同じように教育を受け、社会で活躍している様子を聞き、女子教育の重要性を再認識した。また、女官たちにも講義を聞かせ、宮中の女性の意識向上をはかったという。
のような折、政府は日本初の女子海外留学生を募集する。行き先はアメリカ。留学が決まった5名は、15歳の吉益亮子と上田悌子、12歳の山川捨松、11歳の永井繁子、津田梅子にいたっては、わずか8歳であった。
少女たちを宮中に招いた皇太后は、対面するや、「まあ! こないに年端もいかぬ子らが……」と小さく歎じ、しばし言葉を失ったという。そして、一人ひとりに激励の言葉をかけつつも、共に涙を流したとか。
後に大山巌の妻となった捨松夫人は、そのときのことを、「私にとっては珠玉のような思い出です」と語っている。
い慈悲心と聡明さを併せ持ち、明治天皇と心をひとつに、激動の時代を駆け抜けた昭憲皇太后は、近代皇室の草分け的存在であり、日本女性の鑑であり、「日本国民の母」であったと言える。

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