真実哉教授の 時代を創った女性たち――昭憲皇太后

磨かずば 玉も鏡も
なにかせむ 学びの道も
かくこそありけれ
皇后陛下御歌「みがかずば」
(玉も鏡も磨かなければ何にもならない 勉強もそのようなものである)

明治天皇の皇后である昭憲皇太后は、1849年5月9日、従一位左大臣・一条忠香の三女として勝子という名で生を受けられました。幼いころから学問好きで、たくさんの本を読まれていたそうです。
1867年、明治天皇の女御になられ、1868年には美子と改名された後、従三位に叙位。入内し、即日皇后に立てられました。

在位後、昭憲皇太后は社会事業などに積極的に貢献されます。皇室と関係が深かった有志共立東京病院に「慈恵」という名前を下賜し、病院名はその後東京慈恵医院と改称。現在も発展を続けています。福田会育児院や岡山孤児院の創設にも寄与されました。
とくに赤十字の活動に特別な関心を持たれ、1888年に福島県の磐梯山が噴火した際には、日本赤十字社(日赤)から現地に医師を派遣し、被災者の救護にあたるよう命じられました。
現在では世界で当然とされる災害時の赤十字派遣ですが、それまで赤十字は戦争中に救護活動を行う団体であり、災害時における救護は一般的ではありませんでした。昭憲皇太后により、日本は災害時における赤十字の役割の草分けになったのです。
1912年、アメリカのワシントンD.C.で赤十字国際会議が開かれた際、昭憲皇太后は国際赤十字に10万円(現在のおよそ3億5千万円)を下賜されています。下賜にあたり、趣旨は災害・病気・貧困など、戦争ではなく平時の危機での使用とされました。昭憲皇太后は、新しい概念の世界的人道支援を行なわれたのです。
この10万円は昭憲皇太后基金として現在も運用されており、毎年昭憲皇太后の命日に、世界各国の赤十字に利子を配分。現在までに158の国や地域の、600以上のプロジェクトを支援しています。

女子教育に対する貢献も有名で、東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)開設にあたり、多額の手許金を賜与され、開校式にも臨席されます。それまで、私立の女学校の開校式に皇族、まして皇后が参加することはありませんでした。さらに皇后御製歌「みがかずば」を下賜され、この歌は現在もお茶の水大学から付属幼稚園までの校歌として歌い継がれています。
そして上流女子教育のために、華族女学校(現:学習院女子高等科)の開校も令旨されます。同校の教育指針を詠んだ「金剛石」「水は器」なども、のちに尋常小学校唱歌として広く歌われました。津田梅子に代表される、女子留学生の派遣にも積極的に携わられました。

陸軍の演習も明治天皇とともに数回ご見学されており、陸軍は明治時代の最大スローガンである「富国強兵」にとって重要と、理解されての行動といえます。
聡明、博識であられた昭憲皇太后は、行事などへは象徴的な参加にとどめ、国政に直接関与はされませんでした。この昭憲皇太后の行動や考え方が、近代日本における皇后像を確立したのです。
日本は欧米に「追い付け追い越せ」という時代であると理解され、皇后として率先して欧化政策の先頭に立とうと、1886年には寝巻以外の衣服をすべて洋装に切り替えられます。しかし宮中でもっとも格式が高い、欧風の大礼服の見事な刺繍は、日本の伝統的な模様を用い、生地には国産の使用を奨励されました。殖産興業を推進するために建てられた富岡製糸場にも見学に行かれ、宮中での養蚕も開始されます。

1904年、日露戦争開戦前夜に葉山の御用邸で休まれていた昭憲皇太后の夢枕に、年のころ37、8歳の白装束の武士が立ち、「海軍を守護します」と告げました。宮内大臣により坂本龍馬の霊であると判断され、新聞で紹介された結果、国民の士気は大きく鼓舞されます。

生涯に3万首を超える歌を詠まれた和歌の名手で、その一部は昭憲皇太后御集に収録されています。芸術的な側面の傍ら、近代化のためにと欧米の文献を勉強し、フランクリンの自叙伝なども学ばれていたそうです。
日本の伝統を重んじながら欧米化を促進された、まさに和魂洋才の昭憲皇太后。日本の近代化と女子教育のために尽力されたその御姿は、崩御から100年が経過したいまも、日本の母として輝き続けています。

続きは本誌へ
記事DATA

鈴木真実哉 Mamiya Suzuki

聖学院大学政治経済学部教授

1954年生まれ。ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ経営成功学部ディーン、聖学院大学政治経済学部教授。専門分野の金融論のほか、貨幣論、シュン ペーター理論などを研究。著書に『格差社会で日本は勝つ』(幸福の科学出版)、共著に『カオスの中の貨幣理論』(雄松堂出版)、『金融入門』(昭和堂)な ど。