激動の幕末から明治時代を駆け抜けた 日本と台湾を愛する名参謀「児玉源太郎の生涯」

幕末に生まれ、明治維新という時代に翻弄されながら、「お国の役に立つために、優れた軍人になろう」と努力を続けた児玉源太郎。卓越した戦術センスでめきめきと出世した児玉は、台湾総督として「風土病の地」と呼ばれた台湾を近代化し、産業も発展させました。日清・日露戦争でも、優れた働きで日本を勝利に導いた“名参謀”児玉源太郎の生涯を追います。

くやしさを克服して成長し自他を救う道を選んだ少年時代

児玉源太郎は、1852年に現在の山口県徳山市に、徳山藩士・児玉半九郎の長男として生まれます。

幼名を百合若とつけられ、すくすくと成長しますが、5歳のときに父・半九郎が急死。姉の久に婿養子をとってどうにか家督を継ぎ、百合若は義理の兄となった次郎彦に剣術を教わり、たいへんかわいがられます。8歳からは藩校に通い、成績はトップクラスでした。

ところが百合若が13歳のころ、義理の兄・次郎彦が藩内の争いから暗殺されてしまい、成人男子がいなくなった児玉家は家名を取り上げられ、屋敷を没収されます。一家は親戚の家に身を寄せることになり、百合若は貧しさから藩校へも通えなくなりました。以前のクラスメイトにからかわれながらも、子守りや手伝いの傍ら、母に勉強を教わっていました。

そして亡き父の友人だった藩校教授の儒学者、島田蕃根から、「恨みの気持ちを克服して人として成長することが、自他を救う道になる」と諭され、百合若はその言葉を深く胸に刻みます。やがて百合若は、藩士としての身分の復活が許されて元服。源太郎忠精と改名しました。

抜群の戦術センスで手柄を立て異例の士官への抜擢、そして陸軍大尉へ

1868年、戊辰戦争が勃発。児玉は藩校での成績が認められてか、徳島藩の献功隊の小隊長として、旧幕府軍を倒すために出陣。初陣ながら、17歳の源太郎に同じ10代の部下が10人以上つきました。1869年、北海道の函館・五稜郭で夜襲をかけられた際、源太郎は機転を利かせて部下に自分を中心にした円陣を組ませ、敵を攻撃。旧幕府軍はひとたまりもなく、引き揚げていきました。

他の隊からは死傷者が続出しましたが、児玉の隊からは怪我人すら出ず、その的確で迅速な指示に、児玉の名前が政府軍に広まりました。

戊辰戦争の終結後、児玉はその能力を評価され、陸軍の幹部養成機関である兵学寮に入るよう要請されます。「お国の役に立つために、優れた軍人になろう」と決意した児玉は猛勉強を重ね、驚くほどのスピードで出世していきます。児玉は、下級武士の出身としては異例の士官になり、さらに1872年には陸軍大尉として大阪に配属されました。

西南戦争の勝利に貢献し、少佐に昇進

1874年、佐賀の乱の鎮圧のために児玉も出動。安良川を行軍中、待ち伏せしていた反乱軍に襲われた児玉たち政府軍は、不意を突かれて大混乱となります。児玉は最前線に躍り出て兵に反撃するよう訴えますが、銃弾を浴びて大けがをしてしまいます。

幸い命に別状はありませんでしたが、大阪に戻っても療養生活が続きました。やがて佐賀の乱での指揮が認められ、准官参謀として熊本へ転属。少佐に昇進します。そこで西南戦争が勃発。日本で最後の内戦といわれるこの戦争は熾烈を極め、第14連隊を率いていた乃木希典が、軍隊の象徴である連隊旗を薩摩軍に奪われてしまいます。自決しようとする乃木を、児玉は説得で思いとどまらせました。児玉の活躍もあって、どうにか政府軍は勝利し、児玉は着々と出世。少将にまで昇進します。

第四代台湾総督に就任

1894年、日清戦争が勃発。児玉は日清戦争講和設立に貢献し、検疫責任者として任務にあたった際、後に児玉の右腕として活躍する後藤新平に出会います。

1898年、児玉は第四代台湾総督に就任。当時、台湾は「風土病の地」と呼ばれるほど荒廃しており、統治3年目で、まだ現地の反抗勢力も活発化していて治安も問題視されていました。児玉はさっそく後藤新平を民政長官に起用し、まずは「台湾家屋建築規則」と「台湾汚物掃除規則」を発布。伝染病などを減らすため、都市の衛生環境改善に力を注ぎました。

翌年には医療施設の改善をめざして総督府医院を各地に建造。しかし直接患者の診療にあたる医師が少ないことがわかり、医学校を創設して、現地の台湾人に近代医学教育を行うことになりました。

同時に即戦力を求めて日本からの公医を募集し、特別教育を施してから台湾各地の診療所で医療に従事させました。これらの努力が実り、台湾の衛生環境と医療が劇的に変化。それまでの平均寿命は30歳前後でしたが、若年での死亡率が下がり、終戦時に平均寿命は60歳前後に向上。これは当時、稀にみる成功例でした。

「風土病の地」を近代都市へ

児玉と後藤はさらに、蔓延していた阿片(あへん)患者を減らすために、長期計画を考えて活動を開始します。まず阿片を国家の専売にし、収入は台湾の衛生事業施設の資金にします。そしてすでに阿片の中毒になっている者にだけ免許を与え、特定の店舗のみで吸引を許可し、新規の吸引者は認めませんでした。これにより、新たな阿片患者が増えることなく、第二次大戦終了後には、阿片は台湾から姿を消しました。

台北市にも大都市計画が実行され、近代化された美しい街並みに生まれ変わりました。そして児玉と後藤は、現地の反抗勢力を武力で抑えるのではなく、受け入れて援助すると布令を出しました。児玉は全島をめぐり、現地の人々とふれあったほか、官邸に現地民を招き、食事会などを開催。70歳以上の老人は駕籠で送り迎えをして、盛大な宴会を何度も行いました。

最初は疑っていた現地民も、児玉が約束通り職を与え、生活の援助もしたので、安心して次々と帰順し始めました。源太郎は豪華な総督府の建物ではなく、自分用の畑のそばに建てた小屋に寝泊まりし、外出時は平服、休日は着流し姿。気さくな性格で近所の農民とも打ち解けたといいます。

台湾が総督府の下にまとまったころ、源太郎は当時の総理大臣・伊藤博文にかけあって莫大な国債を発行。世界から開発資金を集め、台湾の学校や病院、道路や鉄道、貿易港などのインフラを整備した結果、台湾の経済は発展を続けることになったのです。

見事、日露戦争の立役者に

台湾でのマネジメント能力が認められた源太郎は陸軍大臣に任命されます。そして1904年、日本がロシアに宣戦布告をし、日露戦争が勃発。中国・旅順の攻略に第三軍司令官の乃木希典が苦戦し、多くの犠牲者を出していると聞き、参謀長の児玉は自らが旅順で指揮を執ると進言。現地入りした児玉は高崎山の洞窟に乃木とともに籠り、面子を潰さないよう言葉を選びながら、指揮権を一時的に譲るよう説得しました。

乃木の説得に成功した児玉は、渋る参謀の伊地知に「これ以上、陛下から賜った大事な兵を、いたずらになくすことがあってはならんのだ!」と怒鳴り、作戦を変更。わずか数時間で旅順要塞の要は日本軍の手に落ちました。その後はロシア艦隊を次々に撃沈させ、やがてアメリカでポーツマス条約が結ばれました。

日露戦争での活躍が高く評価され、陸軍参謀総長に就任しますが、1906年、就寝中に脳溢血で急逝します。55歳でした。出棺のとき、朝から降り続いていた雨がいっそう激しくなったといいます。日本が誇る名参謀の激動の人生は、日本中から惜しまれながら幕を閉じました。

(「Are You Happy?」2014年7月号)

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