夫の成功の陰にはいつも妻の姿があった 夫・英機を愛し続けたあげまん妻・東條かつ子

 東條英機元首相の夫人かつ子(勝子)。その結婚は、かつ子が日本女子大の3年生のときだった。当時英機は25歳の陸軍中尉で、かつ子は19歳。大学を中退して主婦業に専念し、三男四女をもうけ、育児に精を出した。

1944年、東條家は英機の満州派遣を受けて一家で満州に移住。英機が関東軍参謀長として満州の治安を司る間、かつ子も参謀長夫人として、関東軍夫人たちの横のつながりの強化と、満州でも婦人会を定着させることを目標に、会長として活動を開始した。
明るくおしゃべりなかつ子はすぐに他の夫人たちと仲良くなり、親睦を深め、知識の交換などを行った。参謀長夫人とは思えない質素ないでたちで、さらに支那事変後は白いエプロンにたすきをかけ、忠霊塔の清掃や入院中の傷病兵の見舞い、慰霊祭への出席などの奉仕活動に臨んだ。

 かつ子に見舞われた傷病兵には、「母親のようにやさしく声を掛け、食べ物を食べさせ、尽くしてくださった。感謝の気持ちでいっぱいでした。質素な身なりの方だったが、のちに東條英機夫人と知って、驚きました」と語った者もいる。
かつ子の支えもあって、やがて英機は総理大臣に就任。かつ子は総理大臣夫人として、満州のとき以上に忙しく働いた。とくに傷病兵の見舞いは、かつ子の母のような振る舞いに、感激の声が多く上がったという。
終戦後、東條家は一気に窮地に追い込まれる。連合軍が攻めてくると考えた英機は、家族に逃げるよう伝えたが、かつ子は「あなたがこの家にいる限り、私はおそばを離れません」と激しく拒否。そして連合軍が東條家を包囲し、英機はピストル自殺を図るが一命を取り留める。かつ子は九州の実家に逃げ、英機の無事を祈っていた。やがて英機がA級戦犯として巣鴨の刑務所に収監されると、かつ子も東京に戻り、子どもや孫を連れて何度も金網越しに面会した。かつ子が英機に書いた「せめて一度あなたの手を握りたい」という手紙が最後となり、1948年12月、英機は処刑される。
遺されたかつ子は世間から特別な目で見られながらも、子どもや孫に囲まれて91歳の生涯に幕を閉じた。

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