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真実哉教授の 時代を創った女性たち――額田王(ぬかたのおおきみ)

万葉の時代に新たな
ルネッサンスを起こした
「恋多き」天才歌人

恋多き女性のイメージが強い額田王。日本書紀には「鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ、十市皇女を産む」という旨の1行の記述しかありませんが、万葉集には長歌が3首、短歌が9首の全12首が巻一の冒頭近くに納められているほどの、歌の達人でした。生没年は不詳ですが、出生はおそらく630年ごろ。成長後は皇極天皇に仕え、歌人として頭角を現し始めたと推測されます。やがて皇極天皇の息子・大海人皇子の妻になり、十市皇女を出産します。当時、和歌や短歌を詠めるのは教養人であり、人気を集める存在でした。天性の才能を発揮して優れた歌を詠む額田王は、宮中のスターだったといえます。

額田王の歌には確かな技巧と格調高さがあり、さらに女性らしい繊細さに満ちていました。目の前の光景を歌にする短歌や和歌が主流の中、額田王は互いに詠みあう“相聞歌”などで自身の心境や感情をストレートに表すという斬新な技法を展開します。当時は中国との交流がさかんで、漢詩が貴族の新しい教養になりつつありました。額田王は漢詩という海外からの文化を認めながら、和歌や短歌の新しい技巧を発表するなどして日本古来の伝統を守ろうとしていたのです。その意味では、日本の小さなルネッサンスを起こした存在でもあります。万葉の初期を代表する歌人となった額田王は、柿本人麻呂や山部赤人といった、後に登場する偉大な歌人につながる源流でもありました。

十市皇女を出産後、額田王は大海人皇子の兄、中大兄皇子(後の天智天皇)と婚姻関係になります。当時は中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって大化の改新を起こし、ふたりはその後権力を振るっていました。あるとき、中大兄皇子が同じ母親から生まれた妹と通じてしまい、それを穢れとして祓い方を占ったところ、額田王を妻にすれば祓われると出たとされています。中大兄皇子は額田王との結婚のために、自分の妻のひとりである鏡姫王を中臣鎌足に与え、さらに大田皇女と鸕野讃良皇女(後の持統天皇)というふたりの娘を大海人皇子に嫁がせました。

「恋多き女」とされる理由はこのような婚姻関係と、万葉集に納められた句によるところが大きく、天智天皇に対して

君待つと我が恋ひ居れば我が宿の
簾動かし秋の風吹く
(簾が動いたから、愛しいあなたかと思ったら秋の風でした)

という、夫が通ってくる妻問婚ならではの寂しさと愛溢れる相聞歌を贈るかたわら、一説には句会で

茜指す紫野行き標野行き
野守は見ずや君が袖振る
(こんなところで袖をお振りになると、野の番人に見られてしまいます)

と恋人をたしなめる恋の歌を詠み、誰が返句を出すかと静まり返ったところ、大海人皇子が

紫の匂へる妹を憎くあらば
人妻ゆゑに我恋ひめやも
(紫草のように美しいあなたが憎かったら、人妻であるあなたをこんなに恋しく思うことはない)

という歌を返したといいます。その席には額田王の夫である天智天皇も同席したとされ、兄に夫婦関係を引き裂かれながら、今もお互いを思う気持ちについて赤裸々に表た相聞歌は同席者を驚かせました。

やがて天智天皇は崩御し、天智天皇の息子である大友皇子が跡を継ぎますが、壬申の乱が勃発。夫・天智天皇の息子とかつての夫である大海人皇子の争いに、額田王はどちらの味方にもつかなかったと推測されます。大海人皇子の勝利によっておよそ1カ月で争いは静まり、都は近江から飛鳥に戻されます。そして額田王は3度目の結婚をし、中臣(藤原)大島の妻になります。大島は中臣(藤原)鎌足亡き後、藤原不比等により最盛期を迎えるまでの藤原家を支えた大人物で、持統天皇の側近であり、ブレーンでもありました。歌人として日本の伝統文化の和歌や短歌を発展させ、後世に伝える一方で、大海人皇子や天智天皇、中臣大島といった日本の重要人物らと婚姻関係を結び、ともに歴史を創り上げた額田王。日本史における“横糸”のような存在として、今も燦然と輝き続けています。

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鈴木真実哉 Mamiya Suzuki

聖学院大学政治経済学部教授

1954年生まれ。ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ経営成功学部ディーン、聖学院大学政治経済学部教授。専門分野の金融論のほか、貨幣論、シュン ペーター理論などを研究。著書に『格差社会で日本は勝つ』(幸福の科学出版)、共著に『カオスの中の貨幣理論』(雄松堂出版)、『金融入門』(昭和堂)な ど。