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真実哉教授の 時代を創った女性たち――卑弥呼

神の声を国政に反映し日本を平和と繁栄に導いた邪馬台国の女王

邪馬台国の女王、卑弥呼。卑弥呼という名前は中国による蔑称で、本来は「日向」という名前だったと伝えられています。
魏志倭人伝や後漢書など、中国の正式な歴史書には、「倭國乱れ、相攻伐すること歴年。乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼と曰う。」といった意味の記述があります。九州地方は当時、いくつもの国に分かれて争いをくり返していました。
男性の王では軍事的に競い合うため、これ以上被害を広げないために各部族や豪族のトップが集まり、「権威ある人を立ててひとつにまとまろう」と、卑弥呼を女王にしたのです。これが邪馬台国のはじまりです。諸説ありますが、西暦170年ごろではないかと伝えられています。

卑弥呼は神の声を聞き、それを政治に反映するという一種の宗教的な力を持っていました。魏志倭人伝には卑弥呼について「鬼道に事え、能く衆を惑わす。」とあります。おそらく、熱狂的な信者が卑弥呼の下に集まり、その姿を見ただけで畏敬の念でひれ伏し、宗教的な興奮に包まれているさまを“惑わし”と記したのでしょう。神に仕える「巫女」という言葉の語源も、日向―卑弥呼―巫女となった、という説が有力です。

卑弥呼による政治の特徴は3つあります。

 

1.週に一度、神降ろしをして国政の判断をした。

卑弥呼は週に一度、天照大神ら日本を指導する神々の声を聞き、その託宣に各部族や豪族は従っていました。そうすることで部族間の争いは止み、邪馬台国としてひとつにまとまったのです。

 

2.女性を数多く政治に登用した。

文献には「卑弥呼は巫女的な役割をし、弟が国政を助けていた」とあります。卑弥呼と弟の周りには政治的なリーダーや参謀も多く存在しましたが、女性がかなりの割合を占めていたとされます。女性を多く登用するという、先進的な政治が行われていたのです。
魏志倭人伝には、卑弥呼に夫はいなかったと書かれていますが、当時は血統を非常に重んじたため、弟が事実上の夫だったのでしょう。卑弥呼と弟の血統から景行天皇、その息子の日本武尊という、大和朝廷に繋がる人物が生まれていきます。

 

3. 春と秋にお祭りを行った。

この風習は今も全国に残っています。

当時から外交は重要でしたが、国際感覚も豊かな卑弥呼は中国の動向を常に確認。「正式な王朝である魏の国と仲良くすることが邪馬台国の安定に繋がる」と、魏の植民地だった朝鮮半島に使者を送り、魏と親密な関係を保ちました。239年には難升米ら太夫を魏に派遣。魏からは親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚などが贈られました。金印は当時中国国内でもトップの幹部にしか与えられず、魏は卑弥呼を高く評価していたことがわかります。
卑弥呼が外交に力を入れたのは、海外との関係を良好に保つことはもちろん、邪馬台国に反乱を起こす、同じ九州地方の国々への牽制でもありました。魏と交流を深めることで、大和(日本)で最高の権威を保とうとしたのです。

卑弥呼は数十年にわたって邪馬台国の女王として君臨しました。人材登用や外交的な手腕もさることながら、神の声を国政に反映する能力を持つ卑弥呼は人々に崇められ、その権威で国を治めていたのです。
計算によると、卑弥呼は75年近くも女王の座にいたとされます。当時の日本には、宗教や神の声を伝える存在に対する信仰心が大きく、宗教的権威を敬う土壌があったのも、卑弥呼が長く国政のトップに君臨できた大きな理由のひとつでしょう。卑弥呼の死後は直径100余歩の円墳が作られ、その大きさは直径150m程度といわれていますが、その墓がどこにあるかはわかっていません。
卑弥呼の死後、新たに男性の王が即位しましたが、急激に国が乱れたため、卑弥呼の養女で、同じく霊的な能力のある壱与という13歳の少女を女王に立てたところ、国は安定を取り戻しました。
“日出づる国”の“日向”として、神の声を政治に反映し、国を納めた卑弥呼。卑弥呼や壱与は、性別や年齢、権力ではなく、神の声を聞く、宗教的権威のある存在がトップに立つことで国が収まる、“祭政一致”という政治の根本を示してくれています。

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鈴木真実哉 Mamiya Suzuki

聖学院大学政治経済学部教授

1954年生まれ。ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ経営成功学部ディーン、聖学院大学政治経済学部教授。専門分野の金融論のほか、貨幣論、シュン ペーター理論などを研究。著書に『格差社会で日本は勝つ』(幸福の科学出版)、共著に『カオスの中の貨幣理論』(雄松堂出版)、『金融入門』(昭和堂)な ど。